恐ろしい話を読んだ

文学ネタを芸術タグってのも変だけど、まぁ文字芸術だからな。

で、表題だが、朝っぱらからとてつもなく恐ろしい話を読んでしまったのでここに紹介しておく。

場所は大蟻食先生こと佐藤亜紀のブログ。佐藤センセが聞いてしまった恐ろしい話である。

トルコの作家オルハン・パムク氏の最近の日本滞在中のことだ。何社かの新聞社通信社を集めて記者会見をする機会があったとお考えいただきたい。パムク氏はちょっと前にノーベル賞を取った作家であり、もちろん集まった新聞記者たちも各社の選り抜きの文芸ジャーナリストである。で、そのうちの一人がこう質問した。

「あなたの本は日本じゃ全然売れてないんですが、御自分ではどうお考えですか」

http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2008/05/2008517.html
佐藤亜紀:2008.05.17の日記

うへぇ消費脳まっしぐらの編集者が文芸誌にまで侵食しとるんか。いや、そうとしか思えんというか、本屋の品ぞろえ見ても出版社がそうなのはあきらかなんだけど、それでも文芸誌の編集部ってのは、「トーハンがうるさいから泣く泣くそうしてるんだけどね・・」と泣きながら珠玉の文学作品を心に持ってるような人々。なのだと想像していたのだが。[これはひどい]

どうりでオルハン・バムクのごとき優れた文学がいまや大手出版社からはあまり出されず、とんでもなく高いけどいい本出すよという藤原書店からという事情がよく判った。日本の文学世界は不幸である。

消費社会が芸術に侵食しはじめるとそこで芸術はポピュリズム化する。
例えば80年代のアート世界もそうなんだが、画壇系や徒弟制などで占められた美術世界を打破したのが60年代の現代美術作家達なんだが彼ら自体が権威化していった。評論家とエリートの世界で出来たアカデミズムに対し、風穴を開けた現象として、かつてグラフィックデザイナーだった横尾忠則のアーティスト宣言とか、或いはアートディレクター達のアート指向、日本グラフィック展といったアート指向野衣ラストレーター達の反乱が起きたというか、それはそれである種のポップアート的な何事かであったし、例えば美術世界で、商業美術やイラストレーションを低く見るようなそんなエートスがあったことへのアンチテーゼではあった。現代美術世界の芸術家や評論家、画商達が造るエリート意識から来る閉鎖的アカデミズム的権威の階級闘争の光景であったかもしれない。結局のところ60年代からの階級闘争の果てに起きた現象が大衆化というかフラットな存在としてのアートだったといいますか。
しかし、これは当然のごとく表現の場としてのマスという媒体を承認するということであり、そしてこの時代バブルと歩調を同じくしていて、やがてそれ自体がどんどんポピュリズムし、容喙していく。「視覚表現」の主体は市場アートへと移行したといってもいい。いま世に氾濫する視覚芸術はかつてのアートと呼ばれるものより、大量生産型のアニメとか漫画といったものの方が遥かに多く、いまの若者で現代美術を知っているものなどどれぐらいいるのだろうか?そしてその現象のその果てにあるのが村上隆であり、奈良美智という按配だろう。ポピュリズムのアカデミーへの逆流現象である。

こういう絶間ない流転現象がほとほと嫌になったので、そういうトコから距離を置きたくなったという話をちょい前に大野さんのブログでしたことがある。なんというか世間様の流れとは違うところにいたいなというか、新しい、受けるとか、とにかくどうでも良くなってしまった。80年代のあのアート指向に向かった現象と距離を置きたくなったというか、評論したりしている場にいたくなくなったというか。まぁ三流絵師でたいした素材でもないんで、だからどうってこともないが、とにかく自分的に居心地が悪い。自分がこの場にいるのは世間がどうこうとか自分探しの果てとかそんなんではなくここにしかたどり着けなかったので、ここが居心地悪いと実存が辛い。

で、オルハン・バムクだが、この小説先日書評書いたわけだが、たしかに売れなさそうというか、大衆的なところにはいないけど、芸術はそういう観点で存在していて欲しくないわけです。佐藤さんがラノベなど持ち出してるがまさにそういう感じの気持ち悪さがこの質問者にあるなと。つっても実はラノベを読んだことがないんでそれ自体への評価については自分ではよく判らんのですが、表紙画で判断してしまうと、それ読むなら漫画読むやって気持ちになるのだな。

正直、フラットな大衆化された世界というのは、権威的なものを破壊していこうとする革命思想的な右肩上がりの発想の行き着くトコなのかもしれんが、なんか違うぞ。それは違うといいたくなるんである。発信者というより受容者として、そんな世界は寂しくて泣きたくなるのだな。麗しいものが隅に追いやられてるのってやだよ。故にわたくしはテロルは容認出来ないっつーか、破壊はなにも産まんぞというか・・・まぁ、そっちにいくか。笑)

因みに大野さんはこういう本を出していてこういうアートにおけるポピュリズムについて書いている。↓

アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人

アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人

アーティストなどと名乗る音楽家とか、芸能人・政治家画家とか、なんでもピカソみたいなものとか、俎上に上って切られていますよ。
いまは展覧会の絵を描きたいんで読んじゃうと世間の波に舞い戻りそうなんで、怖くて距離取ってますが、はじめの方をぱらぱら読んでもなかなか読ませるテンポの良さがあるんで、「アート」な世界にいる人なんか読んで欲しいです。

オルハン・パムクの本

わたしの名は「紅」

わたしの名は「紅」

まぁわたしは好きですが世の中の人は知りません。ですがあんなこと言われているのが悔しいんで売れて欲しいです。「雪」とかもよさげですよ。でも藤原書店なんで高いんでいまは買えません。財力が無いからです。ですので皆さんが買って読んでやってください。

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あんまり恐ろしくてうっかり佐藤先生のURLを挿入するのを忘れてしまった。入れといた。ナニやってんだか。
流石にこの「葦の囁き」をトラバするのはためらうが・・・・・しておきました。

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そういや久しぶりにアーとネタを書いたな。自分の職業忘れてるんじゃねーのか?とか思いたくもなるが、自分の分野だからこそ言葉にしたくないっつーのはあるかも、発した時点で縛られてしまうんですよ。言葉に。言葉っていうのはもやもやしたものを明示化する。固定化する作用がある。言葉で語りすぎると自分自身を解体していってしまう。そうするとその果てはまことに空疎になってしまうのだな。自分感覚的に。
言葉を生業としてる人はまた違うんだろうが。その辺りの感覚の差ってどんなもんだろうね?

■訂正
この恐ろしい話にはオチがついたんで、そっちも読んでくださいです。
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20080518/1211088898

まぁ、おのがアホ晒しのためにこっちはこのままにしとくよ