友人のお母様が亡くなった

訃報である。
ネト友人のお母様が亡くなられた。
なので祈ってくださいです。

どうにも、こういう訃報は慣れないものである。
人はいつか死ぬったって、やっぱり人生のうちでもっとも親しい人々を亡くすってのは、なんというか激しく辛いもんだ。その人はその人、一人しか居ない。代えのきくものではないです。ゆえに尊いのであるわけだが、当然近しい人間にとっては辛い。

師匠濱ちゃんはそれをして「自分の中のその人の死」ゆえに辛いのだとのこと。自分の中に占めているその人の存在も同時に死ぬ。つまり自分の一部が死ぬゆえに辛いなどと申していた。

今日もたくさんの人が生まれ、死んでいるのだろうけど、それぞれの人にとって、生涯というのは一つしかないわけで。ゆえに誰かが亡くなるというのは世界が死ぬことだったりする。誰かにとっての世界が一つ死ぬ。

私がテロとかあるいは戦争などを心底赦せないのはそういう誰かの一つの世界をものすごく軽いものに見るからなんだが。なんというか、助さん格さんに斬られる、名もない端役のお侍さんだって生活があるんだとか思っちゃうんだけど。

で、我がギョーカイでは人の命は一つというか「永遠の命」という概念である。つまり輪廻とか考えないんで生涯はたった一つなんである。だから大切にした方がいいよっていうか、例えば幼くして死んだ子供はあの世で引き続き生きたりするようだとか、そういうことになるんだろうけど。まぁ、あの世のことは行ってみないと判らないのでなんともいえませんが、一応ギョーカイ的には、亡くなった人とはあの世で会えることになる。

とはいえ、会えないってのはやっぱ辛いのである。
しかし、わたくしの個人的体験では、あの世に一足先にいった人も言いたいことなんかあると言いに来たりするので油断がならない。悲しみにくれまくっていると叱咤しに来たりする。わたくしの場合はばあちゃんの夢枕に立った。「あれをなんとかしてくれ」と懇願しに来たらしい。心配をかけてしまった。
あと、激しく会いたいと願っていると来たりする。死ぬ前に「会いたい」といっていたにもかかわらず遅刻し、死んで10分後に病室についた間抜けな私である。よーするに「死に目」に間に合わなかったのだが、しばらくしてお別れをいいにきた。これも夢の中であったがちゃんとお別れの挨拶だった。へぇ、あの世の人はこういう風に来るのかなどと思ったものである。
ちゃんとお別れを言いに来たくせに、しばらくうろついていたようである。
こうなると、部屋が汚いのもバレバレなので困ったものである。