『船を建てる』 鈴木志保 ロードムービーのような漫画

一輝師匠に強力に勧められていた漫画。
表紙画からするとなんじゃかメルヘンなキャラモノかとカンチガイしそうだが実は内容はアフォリズムに満ちたロードムービーのようなそんな漫画だった。

船を建てる 上

船を建てる 上

船を建てる 下

船を建てる 下

一輝師匠の漫画の読み方というか量は尋常ではない。と言っても察するに微妙にジャンル偏りありそうなんだけど、しかし少女マンガ読みとしての読書量はすごくて「これってどうなの?」と聞くと概ね回答が来る。すごい。しかも彼が手に取るのは知らない漫画ばかりである。ディープすぎてついていけないが、その探求ぶりに尊敬した。

で、その彼が勧める一冊。
正直、はじめ数ページ読んでげんなりした。
というのも、丁度、学校の課題の講評を控え、生徒達が描いた絵本を大量に読んでいたときだったからだ。絵本といっても、何故か詩のような文に絵をつけるというアート本が多く、モノローグな詩ばっかりを大量に読んで、そのいささか退屈で、物語としてなっちゃいない状況にちょいとムカついたりしていたのだ。流行なのかね?と他の講師と話していたときだったからだ。

鈴木志保のこの漫画は、このように不幸にも、「生徒が描いたAAクラスの絵本」という印象ではじまってしまったのだ。チョコレート菓子とせんべいをぱりぱりと食いながら「あ〜、こういうアフォリズムっぽくて、おされなスタイリッシュな絵の、ズル系漫画かぁ」などと頁をめくっていったのだが、上巻を読み終えた時点でその認識は変容していった。

まぁ、これは漫画という体裁をとったアメリカのロードムービーみたいな世界の、つまりあの懐かしい80年代、小さなシネマでかかっていたような実験映画的な、ネオロストジェネレーション的な哀しみのアメリカ小説群。そういう物語だなぁと。漫画版、村上春樹か????
もしかして当時読んでいたら、実はその辺りが鼻についたかもしれない。しかし今となってはそのオマージュとしてすんなりと読むことが出来る。ゆえにこれは島の止まった時間の中で読むべき漫画だったなぁと。つまり、この漫画世界に身を委ね、たゆたう心地よさを味わいたいというか。

この漫画の物語の時系列は真っ直ぐではない。行ったり来たりする。時間の揺らぎがある。そして平行世界としてのもう一つの世界もあり、読む側の立ち居地をたえず不安定にさせる。小さなエピソードの積み重ねなのだが、それらのエピソードは個々に自立しているように見え、しかしそれらは個々に完成しておらず、なにかしらの欠落を感じさせる。それらは全体として世界を為す。登場人物たちは常に不安の中に生を営んでいる。そこにはたえず死の影が付きまとう。ああっ、やっぱり、ここまで書いて村上春樹を思い出さないほうがおかしいぞっ!!!

そういえば村上春樹はまだ読めない。亡くなった友人が読んでいた本。病院から彼の荷物をまとめていたときか、或いは家に運ばれたとき彼の部屋にあったものか忘れたが、それを葬式が終わって、家に持ち帰ってきて読んだ。それが村上春樹の「国境の南、太陽の西」だった。以来、村上は読んでいない。もうすごく昔なので、内容は忘れてしまった。ただあの本にも鈴木志保の漫画に通じる何かがあったような気がする。

過ぎたあの時代。死んだその友人と「あの本がよかった」とか「あの映画がよかった」とか語り合った日々。その彼が死んだ冬、彼の友人を頼ってニューヨークに行った。凍てつくようなニューヨークの冬は私達には暖かかった。凍える気持ちを包むような雪が降り積むあの街が好きになった。
そしてあのニューヨークの街で紡がれたその時の我々の物語と、この漫画の物語はどこか通じている。友人の死によって集まった寂しい人間達が慰めあったあの感覚に。

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

村上春樹の本。
上記の体験から、村上春樹はわたくしのなかでタブーになった。封印が解けるのはいつかねぇ。やれやれ。