映画『めがね』なにもないがある島の日常

やっと、見た。
島から出て約一ヶ月。東京の音と視覚情報の洪水と人の多さにまだ慣れない。パスモとやらを購入して改札を通り過ぎるが馴染まない。未だほんとに通ってよいのか不安になる。街にいても街のお作法がなんとなくわからない。子供の頃から知っていたはずなのに、街は見知らぬ人のようだ。雑踏の中でぽつんと取り残されたような気分になる。

そんな気分の中で、我が家のある島を見た。
嬉しかった。

映画「めがね」オリジナル・サウンドトラック

映画「めがね」オリジナル・サウンドトラック

脚本・監督:荻上直子

出演:小林聡美 市川実日子 加瀬亮 光石研 もたいまさこ  薬師丸ひろ子「めがね」の友だち)

ロケのときから見ていたので、懐かしい。
それとなによりも自分が島で過ごしている日常がそこにあったんで嬉しい。
絵を描く以外は、だらっと「たそがれた」生活を過ごしているのが島の一日。庭を手入れしたり、なんとなく天気がいいので島の端まで歩いたり。晴れたら海辺でうちの島犬とぼっとしたり。海に浮かんだり。
かつて島人に「なにが気に入ってこの島に引っ越してきたの?」と聞かれたことがある。
「何もないから」
・・・・と答えた。
島人の友人は「?」という表情をしたけど「なにもない」ということは非常に珍しい、この時代には珍しい環境だったりする。空と海と木々だけの、「なにもない」空間。
「なにもないが、ある」のが我が島だったり。
いや、ものの見方を変えるなら「過剰にある」ものが沢山あるんだけど・・自然とか、海とか海とか海とか植物とか植物とかキビとかキビとかキビとか山羊とか牛とか犬とか猫とかねずみとか蟲とか虫とかムシとか・・・・。

与論島クオリア」の喜山さんが、この映画を評して

映画『めがね』は、たとえば、三線や与論言葉や、
本当はめったに見ないけどシーサーなどの琉球的な事象に頼らずとも
(もっとも、メルシー体操したりかき氷をたべたりする
ゆんぬのワラビンチャーは可愛いけどね)
与論島を描くことはできることを示してくれた。

与論島クオリア
http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/2007/09/post_5af5.html
■百分間の帰省−映画『めがね』メモ

・・・・と書いていらした。まさに仰るとおりだなと。

「とある南の島」としての我が島はこの映画では「匿名の島」
それでも、うちの島の根底にあるナニかを凝縮したものがこの映画にはあった。ディープに島を体験したものだけがわかるナニか。
うちの島は琉球だけど沖縄でもなくて、沖縄を記号化した色々な事象はあんまり島の日常でもない。(「三線」は宴会で登場するけど。)沖縄の島々だってきっとそうかもしれない。
でも沖縄を舞台にしたものはそのようなエスニカルなものを取り入れようとする。でもこの映画にはそれはない。だから固有名詞のない「どこか」である。ケータイも通じない『ワールズ・エンド』だ。(因みに、うちの島はちゃんとケータイ通じますから。漁師さんも持ってるaudocomoも店構えが全然ハイテクじゃないソフトバンクショップもあるよ)
そういえば、以前、引越してまもない頃、我が島にある謎の本屋、というか「新聞屋だけど本も置いてるけどあんまりやる気はないよ」本屋に背表紙の褪せた、村上春樹訳のポール・セローの書『ワールズ・エンド』を発見した。1987年に出た初版本である。「ずいぶんとまぁ昔の本が売れ残ったままあるんだなぁ。流石、地の果ての島だなぁ」と感心したことがある・

ワールズ・エンド(世界の果て)

ワールズ・エンド(世界の果て)

世界の果てにいる人々の世界の果てでの居心地の悪さみたいなものを描いた小説だった。『めがね』でいえば、重いトランクを引きずって彷徨う「たえこ」のような人々の話。
その本、実はずっと売れずにあった。数年間、ずっとその本屋にあったんだけど、映画の撮影後、消えた。誰か読んだのかな?

私にとってこの映画はそんな風に客観的に見れない映画だった。
喜山さんと同じく

帰省したいけど叶わないとき、ぼくはまたこの映画を観るだろう。

・・・という映画だ。
はからずも、寺崎海岸で、或いはメーラビでたそがれる主人公たえこの、或いは重いトランクを置いて「さくらさん」の自転車に乗って道を行くたえこの、そんな姿になんとなく涙が出た。泣く場面じゃないんだけど、わたしゃ既におばさんだから感情が豊かなんだな。時々はなにに感動したか知らんときにも涙が出る。

しかし、これらのものの見方は島に家があるからで、映像に映っていない場面まで知っている。あの「はまだ」のセットの外の光景も、あの道の先にあるものも、知っている。だから多くの人が見ているようにこの映画を見ることが出来ていないと思う。

おそらく中には、あのもたいまさこ演じる「さくらさん」には違和感を感じる人もいるかもしれない。実際わたくしも、「生もたいさんはたしかにどこかそういうキャラだけど、流石に作りすぎちゃいないか?」と一瞬思ってしまった。
(・・・とはいえ、話が進むにつれてこれはそうじゃなきゃいけなかったわけなんで、違和感を感じなくなったけど。なんか島に住む妖怪みたいな、「うりずん」の化身のような。そいやわたくしも春が近づくと島に帰り、秋の声が聞こえる頃に島から去る人間なんで「さくらさん」的かも。笑)

とにかく、そこに巧くはまれないと、「なんじゃこりゃ〜〜〜〜〜?????」な映画かもしれない。変な宗教っぽいというか。笑)喜山さんの話ではなんでもおすぎが酷評していたらしいんですが、きっと乗り切れなかったんだろうな。それも解らなくもないっす。だって符牒みたいなものが多く、例えば「たそがれ」とか「さくらさんの自転車のうしろ」とかの価値ってのがいきなり説明もなくごろっと出てくる。かなり変。どうもカフカ的といった方がいいような不条理感がつきまとう。薬師丸ひろ子演じる謎の宿の「コンセプト」はエコ的新興宗教的なコミューン的なシロモノだったってのが、対称的ななにかを暗示しているのかもしれないけど。

まぁ、ただ、冒頭にも述べたようにこの映画のナニもなさ加減ってのはまったく島に対するデッサン力がすごくあるなと感心させられるばかりだったですけど。

しかし、主人公・・たぶん作家だと思うけど、仕事で煮詰まっているときの逃避としての島って。。。わたくし的にはかなり危険度が高い。マジ、島空気に逃避したりしてしまい、ヨモギのごとく編集者は追いかけてはこないものの、催促の最終通告電話は無情にも容赦なく来る。済みません。島逃避しないで、頑張ります。
◆◆
そういえば見たあと、友人と話していたんだけど・・・
島でこの映画を見たらたぶん感想が違っていたかもしれない。
映画で描かれているのは、都会から来たたえこにとっての非日常性としての「島」
だけど島に住んでいると日常が、あんな感じの時間と環境。ゆえに日常の延長でもあり、あの映像の外に存在するものが実は日常でもあり、ゆえにこの映画を見て感じるナニかを共有できない可能性がある。島に住んでる島人がこの映画見たらなんていうだろうか?聞いてみたくなった。
でも島んちゅは素直だから「島をこんな風に撮ってくれて嬉しい」っていうと思うけど。