『私家版・ユダヤ文化論』内田樹 なんだか判らないモノを語る
なんでも小林秀雄賞とかになった本らしい。近所のカボスで一押し本になっとったんで手に取った。
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2006/07/20
- メディア: 新書
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わたくしはユダヤ人を知らない。イスラエルというとこも行ったことがない。お話としてのユダヤ人は迫害される民族であり、アンネの日記を読んでアンネに自己投影して、いもしないナチにおびえたりしたのが、人生ではじめての「ユダヤ人」との出会いだったかもしれない。本当はもっと幼き頃に聖書で出会っているはずなんだが、ガキの頭ではイスラエルの民と、迫害されるユダヤ人が結びつかなかった。
とにかく、なんで迫害されるのかわからんが迫害されてきた人々という認識。
世の中のなんとはなしの「ユダヤ人」はとにかく金持ちで、商売上手で、民族の結束力が強く、世の中を陰で動かしているらしいとか陰謀論がささやかれているとか、安息日を守る為に融通が利かないとか、そういう獏としたイメージがあったりもするけど、本物のユダヤ人は見たことがないのでそれも判らない。
そんな「わからない」存在であるところの「ユダヤ人」という存在について、内田樹がわかりやすく説明してくれるのがこの著作である。ユダヤ人についてではなく、「ユダヤ人問題」の光景を描き出してくれたこの著作で、とにかくわけのなからない漠とした存在だった「ユダヤ人」というものがいったいなんなのか、なんとなくこれまた漠然とではあるが、見えてきた気もする。それは「ユダヤ人」が判ったのではなく、「自己の、他者的存在への認識の構造」について、わかったという感じだけれども。
実際、実存のユダヤ人と、イメージのユダヤ人とはかなり隔たりがあるのだろうとは思う。私が知る「ユダヤ人」とは、世俗が作り上げた「ユダヤ人ってきっとこんな感じ」というカリカチュアライズされた像であるが、それは実存のユダヤ人ではない。ただそれだけでは、そのカリカチュアライズされた像が、社会の中で異質な存在となり、迫害されるものとなったのか、同じような存在である華僑なんかともまた違う。ユダヤ人は何故あれほどまでに迫害されねばならなかったのか?という問いの回答にはならない。その辺りの構造も内田樹は描いて見せてくれる。「有責性が罪に先行する(例・ヨブ記)」「反ユダヤ主義者はユダヤ人を強く渇望している」「父なる存在としての民」等々。なるほどと思う分析がつらつらと出てくる。
ところで、なんというか人は漠とした存在に固定イメージをつけるのが好きだ。キャラを作りたがる。そしてその作り上げたキャラに対象を縛るなんてのはよく見られる光景である。
例えば、日本におけるキリスト教の扱いなんかもかなり「ユダヤ人」の扱いに近い。或いは「宗教」の扱いなども同じだけど、思考停止しているとしか思えぬ扱いをしている人をよく見かける。なによりも「宗教は思考停止」などと書いている人が、まさしくそのように書くことで、思考停止しているからどうしようもない。同じことは「日本人論」とかそういうものにもみられると思うのだけど。どうでしょうか?
ユダヤ人問題とは、自己の中にあるイメージとしてのユダヤ人というもの、ユダヤ人の位置づけが「ユダヤ人」ではなく、その人自身を顕しているに過ぎないという。
私たちはユダヤ人について語るときに必ずそれと知らずに自分自身を語ってしまうのである。
結局のところ、この本を読んだからといって「ユダヤ人」がわかったわけではなく、ユダヤ人という素材を通じて、我々自身が陥りがちな思考、ことに集団的思考が陥りやすい罠の構造を知ったという感じ。つまり結局のところ、我々の中にある他者認識の有様の問題が語られた著作という感じでしたです。
・・・という辺りでどうも「私家版」なのだそーだ。
面白かった。
ところで、最後の単元はちょいと難物。
レヴィナスとかいう人の考え方を引用してあれこれいじってるんだが、よくわからん。レビ茄子という人が難しいことを考える人らしいということだけはよく判った。
以下におまけが続く。
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20070928/1190949430