再び信仰について

世間ではよく宗教の事を「宗教をする」「宗教をやる」などという。
これってずっと違和感を抱いてきた。宗教ってやるもんなんだろうか?
わたくし自身はカトリックの信者であり、成人洗礼である。幼い頃からキリスト教の環境で生きては来たが、まぁ日本人的な曖昧さから洗礼は受けずになんとなく来た。ある時をきっかけに「ああ、わたしゃどう考えても、思考から世界認識まで耶蘇だなぁ」と自覚したのでカムアウトした。それが洗礼を受けるきっかけになったんだが、とにかく「入信する」というよりソーシャルに自己確認をしたに過ぎない。
つまり私にとって宗教とは別に能動的に「やる」ものではなく、単なるアイディンティティの根源にあるものに過ぎない。だから別に洗礼を受けたからといって何が変わるわけでもなく、普通に産まれた時から仏教とか神道とか家の宗教がある人とたいして変わりない。世の中の人が家の宗教が仏教であるに関わらず坊主の悪口を言うように、普通に耶蘇坊主の悪口だっていうし、教皇ネタでジョークもいう。バチカン辺りのナイーヴな聖職者が目くじら立てそうな代物も普通に愉しむ。

ここ数日、eireneさんが興味深いエントリを書いておられる。
○A Prisoner in the Cave

http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070818/p3
■[思想]信仰について

http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070819/p2
■[思想]オウム事件について

http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070822/p1
■[思想]「神」の存在

http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070822/p3
■[思想]若者の居場所について

http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070823/p1
■[思想]信仰と伝統

「信仰について」においてeireneさんは森岡正博氏の書評として、「信仰者は疑わない」という森岡のつまり

「信仰と(本気の)疑いは両立しえない」と森岡さんは考える。「信仰」は懐疑の停止からはじまる。だから、懐疑を止められない人間(=森岡さん)は、宗教を信仰できないという。

という考えに対し、以下のように反論する。

ただ、この点については、別様の考え方もできるのではないかとも思う。私の実感に即して言うと、信仰と懐疑は「あちら立てれば、こちら立たず」という意味で相反するものではない。信仰は懐疑という「不純物」をいささかも含まないものではない。

 信じることは、信じている内容の真偽を問い直すこと、信じている内容の正しさをラディカルに疑うことを通して、より本物に近づいていくのではないか。あるいは、信じるという行為は懐疑を通して深まっていくプロセスとみることもできるのではないか。

またここでのコメント欄において「神の存在」についての懐疑がkanjinaiさんから提示され、それをうけてのエントリが「『神』の存在」である。こちらは西洋哲学のお約束「神の存在証明」のお話。

また、森岡氏の書のオウム問題としてeireneさんの体験から、何故オウムのごとき宗教に対する免疫があったのかという体験的な話が「オウム事件について」で為され、それは「若者の居場所について」のエントリへと考察が続く。

また、

では、キリスト教は、自分にとって何なのかといえば、それは自分が物事を考えて生きていく上で参照し、かなり大切にしている一つの「知的伝統」である。「キリスト教=伝統」という見方がいちばんしっくりくる。その伝統のなかに、いろいろ優れた人や、面白い人、とんでもない人、悪人がいる。かれらとの交流を通して、いろんなことを学び、自分が養われている感じはする。

というeireneさんの「信仰について」の最後の一文を受け、sumita-mさんが
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070822/1187751553
■信じること、そして伝統を巡って
・・・と考察を出しておられる。
これに対する応答が、「信仰と伝統」である。

大ざっぱにまぁ上記の流れであり、そこには幾つもの命題が存在する。
1・信仰と懐疑
2・神の存在の問題
3・伝統(聖伝承)への信
4・オウム真理教をはじめとする、若い者達の受け皿としての宗教とは

●1・信仰と懐疑
これについては既に引用したeireneさんの言葉に同意する。
まずもって「信仰」とはなにか?といった時、冒頭にも描いたように、わたくしにとっては考察する(信じるとか、懐疑するとか)という以前の、自分以外の外部者を自分自身が常に持っていたというか、何時持ったのかすら判らぬ「神」或いは超越者を、意識しながら生きてきた、それ自体を疑ったことがない。それは日本の伝統にもあるような、なにか聖域のタブーとか「あそこは幽霊が出るよ」などと言われて畏れるとか、物理的じゃない、実証的でない事柄に、不可思議な意味を持たせて、畏れたり安心したりするレベルであり、一神教だからと言って感覚的に代わりはない。
一神教の場合、聖典が有り、教義があり、ロゴス化されたものがあるがゆえに、戒律的に映るのかもしれないが、eireneさんもおっしゃるように「キリスト教」つまり「教え」に於いては、結構、懐疑したりします。「永遠の命」「身体の復活」などと言われて、「なにそれ?」と思うのがまぁ現代人であるし、わたくしも同じく「なにそれ?」と思いましたよ。なんで神父に素直に言いましたら「それはわたしも判らないことです」などと返答が帰ってきた。一生、考えてみなさいよ的なもののようだ。
教えはガイドラインであり、そこを軸に懐疑したり納得したり考察したりする手がかりのようなもので、神学者達ですら解釈に180度違う答えを出して論争しまくっているわけで、まぁ「哲学的命題、ここに置いときますよ」みたいなもんだろうなどとは理解してます。
それらは信仰に於けるプロセスではあるが、信仰そのものではない。ゆえに「キリスト教」は「信じる必要はない」というeireneさんの言葉に同意する。

 私自身は「キリスト教」を信じる必要はないと思っている。もちろん信じてもよいが、信じることよりも、キリスト教の伝統につらなる人々が、人間や社会のあり方について、どういう問いかけをしてきたのか。どういう点が優れており、どういう点で間違いを犯してきたか。そのことを単にキリスト教キリスト教徒に固有の問題ではなく、人間共通の課題として考えて話し合うことの方が大事だと思っている。

キリスト教」はプロセスである。しかし、それは最終的に教会論の話になる。

●2・神の存在証明
こちらはまぁ偉い哲学者が延々やらかしているんで、哲学史の知識もない私なんぞは別に今更いう事も無いんだが、kanjinaiさんのコメント

kanjinai 『>eireneさん マザーテレサのような場合は、「神の存在を直感知で感じて、それを信じて生き抜いた」ことはあとから証明され得ますが、だからといって「神が存在する」という知が正しいとは限らない、というのが哲学の立場でしょうねきっと。

それと、一神教を信仰していたが、その後、信仰をやめてしまった、あるいは仏教とかに寝返ってしまったという例もたくさんあります。そのような人たちの場合、最初の「直感知」はどうなっていったのだろう、ということを素朴に思ったりします。』 (2007/08/23 00:23)

・・・というのは、やはり信仰的な要素を抜いた、哲学者の見地だなと思います。
人間世界からの視点でいうならまさにその通りであるのですが、やっかいなのは耶蘇なシューキョーな人というのは神という外部者を持ち、その恩寵などということを考えるために、上記のような思考をしないトコはある。神と自分との関係性と言うのは、正直かなり私的で、尚且つ主観的なので、哲学的な相対化した視点で語る事が出来ないなと、常々感じることはある。
この違和感は、例えば、沖縄で貴方が旅をした時、「ここは拝所で神聖な場ゆえに、入る事はまかりならん」などと言われた時すごすごと納得して引き下がる、あるいは宗教的タブーを犯した時「罰が当たるかもしれない」などとおののくとか、風水が悪いなどと言われて信じてもいないのに居心地悪いとか、幽霊が出る物件は買い手がつきづらいとか、そういうのに通じるんだが、これ、ちゃんと哲学的に証明出来ますか?ってぇと、証明出来ないでしょう。幽霊の存在証明も、拝所の霊的証明も。貴方はなんで納得してるんですか?って事も。
だから、哲学的なアプローチを果敢にもしている西洋哲学者ってのは偉いなぁと思いつつ、わたくしなどはその証明をするなんてのは面倒くさくてしないよ。迷信レベルと言われてもそれでいいよ。みたいにハナからそこから降りてしまいます。すみません。
仏教に改宗しようが、やめようが、それも個と神の問題なんで、他者な私にはわからんのですわ。

●3・伝統(聖伝承)への信
さて1に於いて最終的に「教会論」の話になると書いたんですが、キリスト教の歴史を見るととにかく酷い。いいこともあるけど悪い事もある。日本ではなぜかこの悪い事が強調して書かれるんで、キリスト教ってマジ鬼畜。と思われているところもある。
しかし、「キリスト教」というのは永らく数多のそれに関わった人々の物語であり、人間の営みの集合体でもあるわけで、それは人類史そのものでもある。自分もそうだが間違いを犯さぬ人などいない。聖書に書かれている弟子達の間違いっぷりたるや情けないほどである。
つまり我々はその間違いをおかした弟子達の伝統を正しく受け継いで間違いを犯す。しかし同時に間違いを犯す人間が必死に「よく生きよう」とあがいてきた軌跡でもある。現代の聖女でもあるマザー・テレサだって間違いはおかしただろう。腹を立てたり機嫌が悪かったりしたことだってあったかもしれない。
以前の「信仰について」のエントリでも書いたが、光のみでは信仰は成立しえないと書いた。
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20070813/1187012381
■信仰について
このエントリについてはsumita-mさんがトラバをくださった。
○Living, Loving, Thinking
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070820/1187591132
■「ラテンの霊性」或いは宇宙(世界)への配慮の問題

「近代以降の霊性」の場合、「ラテンの霊性」*7と較べて、「世界への配慮」が徹底的に後退して、〈神への配慮〉に集中し、さらにはそれが蒸発して、〈自己への配慮〉が残されたということになるか

世界への配慮と神への配慮という事に関しては、sumita-mさんのエントリとそれにリンクされたエントリを読んでいただきたいが、ローマ・カトリック、或いは正教というような宗教改革以前の、ヒエラルキアを構成する教会は「伝承」というものを「聖書」と同列に扱う。ここでいう「伝承」は「教会が伝えてきたものすべて」であり、聖書以外の伝統化したもの、習俗化してしまったものなども含めたものや、あるいは教会史そのものでもあり、それはすなわち過去に生きて来た人々全ての軌跡でもある。それらを負の要素も含め、知ることによって、なにか情けないが一生懸命生きようとする、人間存在を信じたい(或いは「信じる」と言う言葉がいささかも疑わないという意味なら違ってくるんで)人間存在をいとおしく思う、ということが「聖伝承を信じる」ということに繋がるとは思う。
つまり人間性そのものを否定しない、祝祭的な、そのような視点がそこに在るとは思う。「世界への配慮」というのは言い得て妙かもしれないなどと思う。

例えば、いささか特異的な存在である佐藤亜紀の小説には、そんな善悪を越えた、つまり大上段に構えたこざかしい倫理に振り回されない、目の前に或ることにリアルに反応していこうとする人間が蠢く世界があるのだが、あのような視点はやはりそんな観点からでてきたんではないか?などと思ったりします。

(ちょっと休みます・・・続く)