埋葬文化、西、東

最近見つけたアメリカ人宗教学者さんのブログにこんな記事。
○Dr. Waterman's Desk
http://markwaterman.blogspot.com/2007/07/sarcophagus-and-ossuary.html
■Sarcophagus and Ossuary 棺と骨壷の話

エスの埋葬を巡る話です。
先にあがるまさんという方の以下のコメントがあり、それに答えての展開

トルコで白い石棺が地上に放置されてゐて、何故地中に埋めないのかと思つたことがありましたが、石棺石lithos sarkophagosと云ふのはlimestoneの別名で、どうやら石灰石には死体を早く分解する作用があるので、その中に入れて置けば地中で腐敗するのを待つ必要がないらしい。
私が見た墓地はパムッカレの近くだつたので、あのお棺も石灰石で出来てゐたのでせう。(同一物質から出来てゐる大理石にもその作用があるのかもしれません)

D.クロッサンを読んだこともないのでWatermanさんが彼の何を問題にするのか分らなかつたのですが、段々インターネット耳学問で、イエスの死体は誰も引取り手がなくそのまま放置されたので、鳥や獣に食べられてしまひ、その爲に姿が見られなくなつたのだと、彼が云つてゐるらしいことが分りました。
しかしイエスの死体を収めた墓があつたとすればはどんな様子だつたのでせう?何処か岩穴にでも葬られたやうですが、聖書には地震の記事が沢山出て来るのであの辺りは火山地帯だとすると、火山性の凝灰岩Tuffで出来てゐたのかも知れません。
ローマのカタコンベに行つたことがありますが、ローマは全体がTuffで出来てゐて、それは空気に触れると硬くなるので、簡単に頑丈な建造物が出来るさうです。

URLを紹介したエントリは上記の問い掛けにたいする、Mark W. Waterman 博士の回答としてのエントリとなります。
クロッサンというのはフランスの朝食に出て来るパンではなく、有名な聖書学者で、まぁいわゆる聖書の中の神話的要素を取り除いたイエス像なんてのを探求している方ですが、私は実はよく知りません。ただ、聖書から生み出された伝承的なモノと歴史的なものとの切り分け、それによる史的な、歴史的なイエスとはナンだったのか?というのは一時流行った神学でございますね。
閑話休題。博士の回答。

クロッサンだけではないのですが(例えば Sawicki)、クロッサンはそのことを Jesus とか Who Killed Jesus? という本の中で書きました。多分、今は書いたことを後悔していると思います。近頃は言いませんし。

ユダヤ教の規定の中では、都市や都市近郊で死体を露出していたことはありません。日没前に大急ぎでイエスを含めた3人の死体が十字架から取り下ろされたことでもわかるでしょう。また、犬がその骨でもくわえて街中に歩いて来たら困るでしょう。その犬にも骨にも触った人は穢れますから、しばらく外にも出られなくなりますよ。

骨壷の話に戻りますが、そしてイエスの埋葬とも関連しますが、普通死体は布に包まれ香を施されて岩穴の墓所の台に安置されます。1年後、肉は腐敗して枯れた骨だけになりますので、その骨を骨壷に入れました。これを第二埋葬と言います。日本の奄美でも洗骨(文字通り骨を洗う)して再度埋葬し直す習慣があるそうです。

しかし、不思議なことに、パレスチナでの骨壷に入れる習慣は、イエスの時代を含めてごく短いものでした。間もなく廃れたようです。理由はわかりません。なお、これが行われた時代は紀元前40年頃から紀元後135年位とされています。

エスの墓の様子は、聖書に書かれていることくらいしか想像するのは難しいでしょう。岩を掘った墓には違いないでしょうが、その入り口の覆いは溝の中を転がす岩ではなく、瓶のコルクのように押し込んで覆うのだとか、実にさまざまな説はありますが……。この辺りで今日は終り。

勉強になります。

先ず、石灰岩における骨の保存についてなのですが、それについては博士の回答を省きましたが、我が島で長らく風葬が行われていたというのは何故だろうか?という回答になるか?琉球弧の島々では風葬の習慣が存在したところも少なくありません。与論島だけではなく、沖永良部にもありましたし、久高などでは岡本太郎がその霊場を荒らして問題になった。で、島の石ってぇと石灰岩サンゴ礁が隆起して出来た土地だけに、石灰成分が多い。まぁエルサレムの土地も石灰分の多い石があるからと言って、イエスの埋葬とは直接関係ないけど。「骨が溶けないんだ。へぇ」と思った次第。そこで、一時期だが晒した骨を後に改葬し骨壷に収めるという風習があったということにちょっとびっくり。
博士の言葉にもあるが奄美や沖縄の島々では洗骨の風習がある。以前からこのブログでもたびたび言及している。
我が島の葬儀の光景はこんな感じ。
風葬明治35年ぐらいまであったらしい。死者を納棺して蓋を釘付けし、地中に埋葬するは死者の霊に対する不人情だと、それによって死者の霊が祟ると信じられていた。風葬にあたっては、洞窟の岩の中かその側に4個の平たい石を置いて、その上に死体の棺を置く。棺は筵もしくはカマスで包んで上からクバの葉で覆い、棕櫚縄で括る。棺の周囲には30センチほどの高さで石積みをする。こうした洞穴は当然人里離れた場にあり、柱を立てて屋根を作り、入り口は塀で塞いでおく。これらの習慣は明治以降役所によって禁止礼がたびたびだされたのだが、伝染病の蔓延による死者が多数出たりなどして、埋葬が間にあわないことなどから、風葬はたびたび行われていた。明治35年に来島した鹿児島警察の吉国警部によって風葬場の洞窟は打ち壊され、石で埋められ、埋葬場が設定され、風衝の習慣は打ち切られたそうだ。これ以後島の埋葬は土葬となる。
改葬までの間。仮の小さな社が墓地にあるので改葬を待つ方がどこに安置されているのかはすぐ判る。これらの仮小屋には葬式の時に弔い旗が立てられる。これらは死者の身分によって数が決まっていて島守や祈女(ノロ与論島ではヌル)などは9つ旗、一般人は5つ旗となっていたそうだ。小屋には死者の生前履いていた草履やげたなどを置いておく。
改葬については死後3年から7年ぐらいの間に行われる。島の祈女(ノロ与論島ではヌル)がその時期と誰が行うかを決めるんだよと聞いた事がある。この改葬を島言葉では「プニミイシュクル」「プニヲゥガミ」と言うのだが、前者は「骨を新しくする」後者は「骨拝み」という意味。
親族だけで行うことで、早朝、朝日の出る前に行わねばならない。
埋葬された骨を竹の箸で拾い、白布で綺麗に拭く。汚れている場合は海水を汲んできて浄める(島の墓地は海岸沿いの地にある)骨浄めの順番としては、先ず頭がい骨を探し、綺麗にし、そのしゃれこうべを拝み、死者に生前のことなどを語りかけなどするようだ。その後、身体の上から下までの骨を順番に拾いながら拭き浄めていく。それを大きな甕状の骨壷に足を下に納めていく。最後にしゃれこうべを納める。このでかい壺は蓋だけを地中から出した状態で埋められる。蓋はしっかりと括るのだがその上に更に石などを載せて置く人もいる。近所の墓地ではその石を社状に組んでいるものもある。墓標はもともと無いのだが最近は本土風の墓標を建てている。また昔沖縄から来た支配者階級の人々は沖縄風の廟を建てている。
台風被害報告の時にも書いたが、先日の台風ではこれらの墓地が波でひっくり返され、しゃれこうべが散乱し、洗骨前の骨と、納骨した骨とがごちゃごちゃになってしまったらしい。他家のと自分ちのとも区別がつかない状態だったのだろうか?その周辺はしばらく交通止めになっていたらしい。
因みに埋葬するより風葬の方が骨の腐りは早いそうだ。腐った肉があるというのは死者がこの世に未練があるということらしい。この場合は「道ぬ違けくとぅ、思い切ち、あぬ世かてぃ、行かにばならぬ(道が違うゆえ、思いを断ち切りて、あの世へと、いかねばなりませぬ)」と祈り、鎌で切りつけ、小鳥を死体のそばにいれて、再び埋めて改葬を待つそうだ。小鳥はおそらく魂を運ぶ役目なんだろうが・・・生きてるのを埋めるのか?死んだのを埋めるのか?

以上が我が島に見る埋葬の光景なのだが、それと同じ風習がイエスの生きたイスラエルにあったというのは、初めて聞いた。
エスの死の光景。埋葬後のイエスの遺体が墓に無かったことなどの理由、復活観がこれによってなにか変わるってモノではないが、死者を葬るにあたってのメンタリティとして改葬の習慣を持っていた人々が、どのように死と死者との再会を考えていたのか、なんとなく判る気がしなくもない。改葬までの期間、死者はこの世とあの世の境にいる。肉が残った無残な遺体はこの世への未練を断ち切れないでいると考えられていたとしたなら、肉どころか骨すらないってのはどういうもんなんだろうね。しかも完全な骨と肉の状態で再びやって来るというおまけ付き。

島人にとって改葬時の再会は心待ちのことでもあるらしい。死者との別れをそこで完全に告げることが出来る。綺麗になった骨は死者があの世に完全に逝かれた事をしめすものでもある。この世に未練なきことは死者があの世で満たされていることでもある。同時に骨との再会は、死者との語りの時でもある。あの世とこの世の対話が未だあるということでもあるのだが。イスラエルのそれらの風習を持っていた時の人々の気持というのはどういうものだったのだろうか?

ちなみに、これを以て「日ユ道祖論」とかいわないように。

島の風習については以下の本から参照。

与論島の生活と伝承 (1984年)

与論島の生活と伝承 (1984年)