「美しい国」とナショナリズム 環境騒音

今朝は町内での共同海岸清掃の日。
島の海を常に美しく保とうと、島ではたびたび海岸清掃を町内ごとで行う。まぁ横浜でも町内会での公園の掃除とかあったな。どこの自治体もそうした活動を行ってますね。島ではその頻度が多い気もしますが、どうなんでしょう。
わたくしは常は朝が遅いんで、この清掃の日に起きれないことが多い。しかし島夏の凶悪な天気で昨今はわりと早く目が覚める。ぼーっとしていたら7時を告げる有線の放送。なもんで近所の浜にお隣親子と共に出かけた。我が在住地区の島んちゅがあつまって浜でゴミ拾いしてた。
島の浜は海の向うからのゴミがたくさん流れつくんだけど、島んちゅ達のこうした清掃活動のお陰で壊滅的な状況にもならず、いつも綺麗である。観光でいらしたお客さんがその綺麗さに悦んでくれる。そういうのはこういう地域活動の結果でもあり、まぁ、観光が一つの産業でもある島にとっては大切なことでもある。
こういう活動が自主的に積極的に出来るのはそのコミュニティの規模が小さく、またその地域での恩恵を実感としてもっている、つまりその土地自体に自分自身が根差しているかどうかにかかることもある。公共への行為を行えばその恩恵はダイレクトに自分に返る。
我が島は小さ過ぎるんで、引っ越してすぐに島之反対側にいっても、私が引っ越してきたことを知ってる人がいるくらいなんで、誰がどんな風に暮らしてるかとか、公序良俗に反することをすればわかってしまうとか、そういう小さいコミュニティのお蔭で、島の美化だけではなく、治安、安全も保たれている。
こんなニュース記事の紹介を読んだ。
○Living, Loving, Thinking
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070630/1183176001
伯剌西爾人排斥問題から共同体の存立を考えてみる

sumita-mさんが紹介してくださったニュースである。ブラジル人が静岡で新居用の土地を買おうとして断られた話である。ブラジル人による犯罪の実態というのはよく知らないのだが、彼らが増えるに従って犯罪も多くなっているという話はよく聞く。一部の困ったブラジル人の所為ではあるのだろうけど。そういうのを懸念した住人達が反対運動を起こしたらしい。
それをうけてsumita-mさんは共同体の持つ本質的な性格を指摘する。異分子を受け入れない共同体。閉じた社会。

外部に土地所有権が流出してしまうことに対する共同体(ムラ)の抵抗については、例えば吉田禎吾先生の古典『日本の憑きもの』(中公新書)とか。共同体というのはそのようにして活性化してしまうので、そのために異分子として排斥された(多くはマイノリティである)個人を共同体*3の本質的横暴に抗して救済するのは〈法〉の役目ということになるのだろう。

我が島は島で閉じた宇宙である。島んちゅとたびんちゅという言葉が示す通り、そしてたびたび島んちゅが「たびんちゅ」と外部者のことをいうように、島のうちと外の人間という意識がある。島の土地を買う時にも、たびんちゅに対する島んちゅの警戒心を強く感じることはあった。沖縄の島々があの体たらくなので、その懸念は判らなくもない。我が島でも開発と投資の為に買って放置された物件がある。
あるいは今の人口比こそが理想でこれ以上人が増え、またたびんちゅが増えると犯罪も増えるんじゃあるまいかという懸念も聞いたことがある。昔、観光ブームだった頃、自転車泥棒なんかがいてそれは不作法な観光客だったりしたとか、まぁそういう話を聞くとその懸念も判る。
共同体の伝統を守り、一定の水準の美しさと安全を守るには異分子は多く無いほうがいい・・・。そういう意識はいわばナショナリズムと表裏一体である。難しい。
全ての人がシチズン意識を持つなら、その出自は関係なく、今そこに住んでいる土地の市民としてそこを愛することが出来るだろうが、どうも人は故郷、出自というものに執着する。ことにアジアにはその傾向が強い、在日の問題でもそういう話を聞く。1世と2世、あるいは3世とでは意識が違っていたりもするし。日本のナショナリストは「日本」に溶けこまぬ彼らを批判するが、日本人もまたその土地土地でシチズンではない民族意識で動く人も多いのではあるまいか?
疑問符なのは、私自身がそういう地域性ナショナル意識が無いのでその感覚自体がよく判らない。どこにおいてもたびんちゅでいるしかなかったから、地域的なナショナリズム感覚を育てようが無かった。「出身地はどこですか?」と聞かれても答えに窮する。京都で産まれ、横浜で育った。と答えるが、親は神戸と京都出身。家の文化は関西的で母の影響で京都色が強いが、わたくしは京都人ではない。育った過程もほとんど記憶にない高槻、わずかに覚えている静岡の三ケ日、小学校を過ごした川崎、母の実家の京都には夏の間、預けられたりしていたし、そして残りはずっと横浜で横浜に定住した。父が神戸出身だったということもあり「起伏がある海のあるところ」を望んだからなんだけど。子供の頃の生活活動範囲は母の仕事場のある東京の自由ケ丘から横浜の港周辺にまで及ぶ。小学生で既に定期をもって原宿の塾まで通っていた。だから記憶としてのコミュニティは広く、またどことも特定出来ない。
ゆえに共同体の帰属意識を、血ではなく、「市民(シチズン)」として持たざるを得なかった。だからどこに住んでも意識はあまり変わらないし、移り住んだところのシチズンとして考える癖がついたとは思う。ただ、そういう形而上的な意識というのは、血の意識に対し、脆いなとは思うことは多い。太刀打ち出来ない強さが地域的な帰属性、血の記憶にはある気がする。

わたくしなどは異分子同志がより集まった新興住宅地に住んでいたから、ブラジル人というだけで排除してしまう意識がイマイチ判らないし、中国人犯罪がよく叫ばれるようになり、「中国人」のイメージが以前あった「華僑」ではなく、「不法入国者」として意識され、なんじゃか悪くなってしまった頃でも、引っ越してきた近所の中国人にそんな意識を向けたこともない。ややや、ここも国際的になったもんだなと感心するだけで。それが異分子がより集まった地域性によるものだからなのだろうけど。

ただ、島を見る限りその血のコミュニティがセイフティネットになってきたこともよく判る。正直、異分子同士が住む横浜よりずっと住みやすいのはたしかだ。どこそこのばぁさんが歩いていたよ。と徘徊老人も安心して歩ける土地でもあり、独り住まいでへたれの私などにもなにかというと気にかけてもくれる。
モノごとにはなんでも、よい面と悪い面はあるなとは思う。こういう狭い世間が息苦しいと思う人もいるかもしれない。

そういえばsumita-mさんが指摘している通過儀礼としての酒の席がある。

ところで、共同体は排除するだけが能ではなく、余所者と折り合いをつけていくメカニズムを内包している筈だ。これはイニシエーションという問題とも関わるのだが、洋の東西を問わず、また古今を問わず、例えばシャリヴァリもそうだが、共同体には〈儀礼的いじめ〉を通じて、余所者(異分子)を一見排除するように見せかけながら迎え入れるということが制度化されていた筈だと思うのだが、それはどうなっているのか。本当は、1990年代に世を挙げての大弾圧によって日本の大学から〈一気呑み〉が消滅してしまったのが悪いというのを落ちにしたかったのだが、そこまでは論理的に繋がらず。

先日まで紹介してきた島宴会。
宴会では島んちゅが酒びん片手に「与論献奉」をしにやって来る。宮古の「おとーり」文化と同じなんだが、この「献奉」の通過儀礼によって島んちゅとたびんちゅは互いに認めあう。それによって島共同体の仲間として迎えてくれる。まさに「一気呑み」文化といえるかも。

この献奉のお蔭で顔も知らなかった島んちゅの知り合いがどんどんと増えていく。そしてやがてその大さ故に「どこ歩いていても知り合いがどっかにいる」状態となり、共同体の中に溶け込んでいく。溶け込むにつけ楽になっていくのは実感する。

そういえば↓これも土地意識(血の共同体、ナショナリズム)の裏返しが根底にあるか。

○木走日記
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20070629
■[朝鮮]お騒がせな「脱日」オバサンのとんだ狂言会見を徹底検証 15:33

北の方々は「日本だって拉致してるじゃん」的な方向に持っていきたかったようだけど、お隣の韓国にまで呆れられてしまう体たらく。政治に利用しようとする北のなりふりかまわずな状況なようで。
それはともかく、この帰国したおばさん、日本に溶け込めず、苦労した模様。日本で彼女は「たびんちゅだった」のだろうとは思う。

◆◆
ところで、話は全然変わるんだが
たびんちゅ仲間のS氏がいつもブログの代わりに島通信をくださるんだが、最近の彼の関心事は島のスピーカー問題。

まぁどこの田舎でも見るあの拡声器による有線放送。
最近町が防災強化の為、この拡声器を島の到るところに設置したはいいが、S氏の家の近くにもそれが設置され。朝っぱらからすごい騒音状態らしい。まぁ7時なんで島んちゅは概ね起きてるんだけどね。わたしのごとき朝まで仕事組だとつらいかも。
で、私の家は幸いそれが遠いトコに設置されているので騒音という状態ではないが逆に音が割れて、しかもあちこちのスピーカーからの音声が時間差で到達する為に、もうナニを言ってるかさっぱり判らず、防災の為にもなりゃぁしない。いずれにしてもなんでそんなもん設置したんじゃ?という疑問はあった。
島では各家庭に無線機を配ったんだがそっちをやめて、拡声器に乗り換えるつもりなのか、無線機での放送が最近無くなった所為で不便している。健康診断や定期検診がいつ行われるとか犬の狂犬病注射がどこで行われるとか、気象庁の警報等々、そういう地域情報が有り難かったんだけど。
放送内容に関してもいくつか批判として島の役場に要望をしたらしく、しかしS氏の要望はマイノリティなようで、島んちゅはどっちかというと放送を有難いと受け止めていて、放送時間を増やせとか、島歌を流せとリクエストしていたりしているらしい。

正直、こりゃ環境騒音の問題だろうなと。
無理やり意味もなく音楽を音の悪い音源で聞かされるのはわたくしも苦痛だ。東京のあの繁華街のクソ五月蝿い音楽垂れ流しがどうにも苦手なわたくしはS氏の気持がよく判る。渋谷なんかで「おまえら、耳くそ詰まってないか〜〜〜っ?」とか叫びたくなるもんな。役場のほうでは「島んちゅの要望が多いから・・」という理由で却下したようだが。とほほである。各家庭の無線機なら「音消しゃいいじゃん。」な対応ができるが、拡声器で鳴らされてはなぁ。

役所さんには放送内容は現行でいいから、無線機で流す以前のやり方に戻してくらはいとお願いしたいものです。内容すら分らない状態での騒音たぁ苦痛っす。・・と提言してみようかにょ。

ところで役場が訴えに対しほとんど却下したのに対し、逆に前向きに「検討、考慮します」という少ない返答の一つが「アヴェマリア」の音楽であった。

おお!そんなもんまで流れていたのか。音が割れてるんで分らんかったよ。
夕刻、日没の頃にアヴェマリアって、ミレーの晩鐘みたいに、夕べの祈りに最適なんぢゃ?アンジェラス祈っちゃうよ。いやぁ、そいつだけはやめて欲しくない。
・・・が、「アヴェマリア」文化を保持する人間って実は島でわたしと祖母だけだな。

ま、環境騒音。フィレンツェのあの馬鹿みたいな音響のジョットーの塔から響く鐘の音も、そういや安眠妨害だったなぁ。あれね、かなり呪いましたね。旅気分とか言ってられなかったです。島の音割れスピーカのレベルを遙かに超えた大音量だもんなぁ。アレの所為で毎日寝不足になったもんな。フィレンツェ人は今もあれで目が覚めるんであろう。
「朝ミサに来い」ということか?・・と思いつつ二度寝したけど。