英雄譚と『オウエンのための祈りを』/ヴァージニア工科大の事件

とりあえず読破。

オウエンのために祈りを〈上〉 (新潮文庫)

オウエンのために祈りを〈上〉 (新潮文庫)

オウエンのために祈りを〈下〉 (新潮文庫)

オウエンのために祈りを〈下〉 (新潮文庫)

昨日は単行本の貼り付けちゃったんだけど、文庫で読んだからこっち貼っとく。


アマゾンの単行本のトコにレビューがいくつか載っていて「キリスト教に馴染がないために判らない」という意見が多くて、そうだなぁ。しかもアメリカのように多数の教派が入り交じっている状況もかなり特殊なことながら、それらが互いになんとはなしの距離があってその距離感とか理解していないと、判らないことは多いかもしれない。
「奇跡」「信仰」「処女懐胎の教義」「聖遺物」「聖像」「祈るということ」そして「聖書」これらに対する感覚を十全に理解していないと読み誤る以前に、「判らない」かもしれない。

●オウエンを読む為のお助けキーワード

  オウエンの両親の所属教派、聖像等が飾られているので区別がつく。そのためプロテスタントから「偶像崇拝」と批判されている。迷信的などとも批判されている。修道女がいるのもこの教派。かつてアメリカにおいては比較的下層階級に多かった。聖職者は「神父」と呼称。尚、修道女を「ペンギン」と揶揄するのはわりと一般的。何故か修道女はペンギンのような歩き方をするのが多い。

    • 会衆派、長老派

  プロテスタントの教派でアメリカではメインラインの教派。宗教的な意味でリベラル傾向が強い。聖職者は「牧師」妻帯化。カルヴァンの流れを汲む。長老派、会衆派の違いは前者がウエストミンスター信仰基準(長老を置くとか)を認めているのに対し、後者は完全民主主義である。会衆派は特にリベラル傾向が強い。
またピューリタンの流れを汲むのでかなり真面目。

    • 監督教会(聖公会)アングリカン

  英国起源。英国では英国国教会アメリカにおいては支配者階級に多かった。上記のプロテスタントカトリックの中間的な教派でもある。伝統を重んじるハイチャーチから宗教的リベラルなローチャーチまで同じ教派かと疑いたくなるぐらい幅が広い。聖職者は概ね「牧師」妻帯化。

    • バプテスト

  プロテスタントの一つ。米国のプロテスタントでは最大の教派。南部のバプテストは政治的保守が多いとも言われている。洗礼の方法に特徴アリ。聖書の一字一句を字義通り信じる霊感逐語説をとる。ファンダメンタル(日本では福音派)と呼ばれる人々もこの教派と重なる。

  • テレビ伝道師

  アメリカで特に盛んというかアメリカ固有かもしれない。特に南部バプテストのビリー・グラハムが有名。(ジョージ・ブッシュに影響を与えた人物)

  • 奇跡

  キリスト教福音書には奇跡満載。有名な奇跡はなんと言っても「復活」キリスト教徒はこれらをマジ信じて成り立っている宗教であるが、流石の実証主義的な時代にはその信じ方にも千差万別。文字通り信じる人から、概念的に信じるのまで。色々。「奇跡」好きは超常現象好きとも重なり、トンでもを信じがちなのまでいるが、教会は流石にトンでもについては眉をひそめている。現代では寧ろニューエイジ系の人がこれを好きなようである。

  マリアが聖霊によって身ごもったという奇跡。信じないものにとっては(キリストを神性化する為の)あやしいシロモノ。あまりにも荒唐無稽なのでキリスト教徒でも「これはただの神話」と割り切っている人もいるが、公式には、概ねのキリスト教の教派において「信じる」とされる物語である。ただこれだとヨゼフはただの間抜なので、中世から「間男」の代名詞とされたり、ヨゼフは散々である。

  • 信仰

  説明を省く。

  • 聖像

  カトリック教会と聖公会のハイチャーチなどにみられる。キリスト教十戒では「像を刻んではならない」という偶像崇拝の諌めがあるが、これらの像は信仰のよすがというか単なる記号的存在と見做し、像自体に霊的意味があるわけではない(つまりご神体ではない)・・というへ理屈でもって存在している。そのため像が破壊されても、モノが壊れたというレベルで嘆くだけで、破壊そのものが直接神の冒涜に繋がるものでもないので、オウエンは神父に怒られたりはしなかった。

  • 聖遺物

 小説には直接出てこないが、カトリック正教会では聖人のよすがとなるもの(遺体そのもの)を聖像のように聖堂内に安置していたり、それに祈りを捧げたりするのでこれまたプロテスタントに「異教的で迷信的だ」と批判される。今日のカトリックでは盛んではないが、中世では民衆信仰として盛んであった。オウエンが集めているモノ達(人台やアルマジロの爪・・・等々)にはこのような聖物崇拝的な光景を感じる人もいるだろうゆえにカトリックを嫌うオウエンのカトリック的なやり方に皮肉を感じる人もいるであろうが、物語の中でその理由は明かされていく。

  • 祈るということ

 祈りのない宗教はほとんどないが、一神教キリスト教を含む)の祈りは神との対話である。祈りが聞き届けられるとは限らないというか現世御利益的な祈りは主流ではない。なので一方的にぶつぶつ言ってるみたいにみえるかもしれない。また他者の為に祈るという習慣がある。

『オウエンのために祈りを』において、アメリカにとってかくも「キリスト教」というモチーフがその根底に深く根差しているのかと、あらためて思い知る。まぁ或る種の病理的といってもいいかもしれないぐらい。この距離感というか感覚は、ヨーロッパにはない。ヨーロッパのキリスト教世界はここまで饒舌でもない代わりに、重く根差しすぎていてもいる。その点ではアメリカのキリスト教はどこか楽天的でもありどこか悲劇的でもある。この小説はまったくもってアメリカ的なキリスト教世界だ。

オウエンは予定説の中で生きている。彼は予知能力がある。同時に彼は神の道具であることを確信していて、その「予定」を変更出来るかもしれないと、ジョンのうえに訪れるかもしれない運命を変えようとも試みてはいる。その結果についてはここでは記さないが。

オウエンは英雄的に生きる。己自身がそうなるように、その並外れた知性でもって、策を弄する。その為語り手であるジョンは彼の「道具」に過ぎないようにも思える。(ゆえにオウエンはどことなくやなヤツに感じるのはわたしだけか?)オウエンはひな形としてのキリストである。苦い盃をのみ干すことの覚悟をして生きる存在であり、神の計画のうちにあることを生まれながらにして約束されたものでもあり、犠牲のうちに死すことが決定されたものであり、「英雄」として死ぬ。歴史の中に記されることなき英雄ではあるが、しかし、たしかに英雄として一応死ぬ。極めてローカルな英雄として。

オウエンの物語は福音書のパロディでもある。

さて、昨日のエントリでヴァージニア工科大学の銃撃事件の犯人について触れた。
アーヴィングの上記の小説にベトナム志願の頭のネジのとれたトンでも暴力野郎がちらっと出てくるが、そのトンでも君のごとき、暴力的なネジとれ野郎だ。彼の中には逆転した「英雄」像があったようだ。自らを史上最悪の凶悪的存在、デモニッシュな存在として演出し、実行した。非コミュ非モテ尚且つ妄想君な彼の内面がいったいどういう風であったかは判らない。ただふつふつと憎悪をたぎらせて、「英雄」的な、人々に怖れを以てみられる存在としての自分を妄想し続けていたのかもしれない。

真に英雄として死んだオウエン・ミーニーと殺人鬼として死んだチョ・スンヒ容疑者。まったく正反対の、善と悪の対照的な存在であるが、オウエンの人生はイエスをなぞり、チョ・スンヒの声名は「キリストのように死ぬ」であった。

町山氏は『タクシー・ドライバー』のロバートデ・ニーロが扮するヒーローに影響を受けたのではないだろうか?と指摘していたが、アメリカというのはなにか「英雄」なるモノにとらわれているなと思う事がある。アーヴィングの小説のテーマの一つもそれであるし、ヒーローモノと聞いてまず思い浮かべるのは「スーパーマン」である。西部劇のヒーローでもいいし、ハリウッド映画は「英雄」譚で溢れかえっている。

そもそもがキリスト教自体が「イエス・キリスト」という英雄を持つ。カリスマ派的な宗教観もそういえば米国発だ。テレビでは伝道師がスターとなって登場する。ヨーロッパのキリスト教観とその辺りが異る。

ヨーロッパにも伝統的に「聖人」という「英雄」に匹敵する存在でもあるにも関わらず、アメリカのヒーローモノ的なイメージがないのは、聖人はかなりへたれが多いような物語になっているからかもしれない。しょせん神の道具というか、神の僕というか、イエスと違って、「忠犬ハチ公」的、ご主人様に忠実なへたれに見える。「英雄」という言葉から受けるイメージからはほど遠い。

その「英雄」も戦争を経て微妙に変容したという話はよく言われる。楽天的な圧倒的な善の立場だった「英雄」に蔭が生じたという。1940年代に圧倒的な人気を持って、以後アメリカの象徴的存在となったスーパーマンと違い、1960年代後半になってアメリカのテレビシリーズで登場してきたバットマンスパイダーマンは影がある。なんせスーパーマンは疑うこともなく素直にアメリカの正義の体現者だけど、バットマンジェイムズ・エルロイみたいに犯罪を憎むあまりに活動をはじめた個人主義者(『DETH NOTE』のライトも似たようなもんじゃが)スパイダーマンについては風貌がちょいと嫌だったんで、よく知らないけど。なんじゃか過去に後悔していていつも悩んでいる印象。

映画に目を転じるなら、西部劇俳優を経て、克服してはい上がる「ロッキー」、ベトナム戦争帰還兵「ランボー」ってなスタローンなんかがいたけど、そういや最近この手の典型的な「ヒーロー」像はアメリカにない気がする。単にアメリカン文化に疎くなったからか?その代わりにキリスト教保守が台頭してきて、アメリカ文化が抹香臭くなった気もする。アメリカに詳しい方に教えてもらいたいものだが。

AFIアメリカ映画・ヒーロー&悪役ベスト100
http://www1.harenet.ne.jp/~sato2000/movie/afi/afi100heroesvillains.html

あ〜。ハンニバル・レクターが悪役で一位ですか。そういえば、ある時代から、善なる主人公より、悪役の方がなんとなく魅力っていうのが増えた気もするけど。それを逆手にとったタランティーノとかが人気が出たり。

閑話休題

バージニア工科大学の犯人のことはよく判らない。ゲームに影響受けただの、いじめられていただのと、あれこれ情報は入って来るが、昨今の若者を論じる典型のモチーフだなという印象しかなく、それに原因を求めても仕方ないとは思うし、彼個人のなかの人格的問題だろうということは昨日も書いた。だから上記のヒーローの推移なんてのもとりわけ重要なことではないし、彼のような存在がアメリカ的であるというわけでもない。モチーフがアメリカ的ではあるが。

そのアメリカ的モチーフ。『オウエンのために祈りを』ではベトナム戦争、そしてロナルド・レーガンに系譜される、「戦争」「外交政策」が中心に絡んでくる。また前述の通りキリスト教が全ての背景に存在する。

オウエンはこのように日記をつづる。オウエンが死ぬ直前の1968年7月7日の日記。

「この国はどうなってしまったのだ?」
「ばかげた『報復』の精神ーサディスティックな怒りが蔓延している」

「この国は、全てを単純化しなければならないほど、巨大になりすぎたのだろうか?」
「この戦争に目を向けるがいい。われわれには、『勝利』を導く戦術を使って世界中から殺人者呼ばわりされるか、戦わずしてただ死んでいくしか道はないのだ。われわれが『外交政策』と呼んでいるものに目を向けるがいい。わが国の『外交政策』は宣伝活動の婉曲表現であり、それは悪化の一途をたどっている。」
「教会と国の指導者たちー彼らは、われわれに何を教えてくれるのだろう?どうやってわれわれを助けるのだろう?彼らがわれわれを癒すことが出来ないのはたしかだー」
「この独善的な狂信家どもは『宗教家』ではない。ー彼等が説く、親しみやすい知恵は『道徳』とは言えないのだ。」
「まさにその方向に、この国は向っているのだ。単純化の方向へと。未来の大統領に会いたいって?それなら日曜の朝に、ちょっとテレビをつけてみればいい。画面に登場する聖なるいかさま師のうちの誰か。それだ。それが未来の大統領閣下だ!」
「このすばらしい、巨大な、汚れ切った社会の亀裂に落ちていこうとしている子供たちの未来を見てみたいって?そういう子供たちの一人に、この前会ったばかりだ。(ネタバレ中略)彼は、何かをひどく恐れている。彼の抱える問題は、テレビの伝道師たちー未来の大統領ーが抱える問題とはちがう。らに共通する問題は、彼らが自分が正しいという絶対の自信を持っていることだ!これはきわめて恐ろしいことだーわれわれの行く手には、きわめて恐ろしい未来が待ちうけているような気がする」

この小説が発表されたのはレーガンが政見を握っていた頃の1989年である。

預言者としての彼オウエンーそしてアーヴィングのー予言は今日のわれわれの世界を言い当てているかもしれない。