『死の棘』島尾敏雄 夫婦の「受難」の道行き

痛い腹を抱えて眠れぬ夜に読み終えた。

死の棘 (新潮文庫)

死の棘 (新潮文庫)

思いやりの深かった妻が、夫の「情事」のために突然神経に異常を来たした。狂気のとりことなって憑かれたように夫の過去をあばきたてる妻、ひたすら詫び、許しを求める夫。日常の平穏な刻は止まり、現実は砕け散る。狂乱の果てに妻はどこへ行くのか?―ぎりぎりまで追いつめられた夫と妻の姿を生々しく描き、夫婦の絆とは何か、愛とは何かを底の底まで見据えた凄絶な人間記録。

愛憎は表裏一体。ミホの裏切った夫への憎悪は南国の夜のねっとりとした闇のようにトシオにまとわりつく。殺意の籠るその憎悪の相貌と、ただ一人、夫をのみ見つめ続ける深き愛の相貌と共に、西欧の一月の神のごとく、二つのペルソナが絶えず入れ替わる。一人の人間が一人の人間を愛しすぎた時、なにかのきっかけで修羅がはじまる。

妻は作家である夫の冷たさに耐え続けた。外に女を作っていることは知っていたが、黙っていた。家のことを一切省みない夫の冷たさに、もしかすると作家という特殊な仕事ゆえに致し方なきことと耐えていたのかもしれない。しかし、その沈黙の陰で、疑念はふつふつと彼女の頭を蝕み、夫の裏切りをその目で確かめんとあとをつけ、探偵を雇い、夫の「仲間」をたずね、「あいつ」との情事の場の陰に潜み耳をそばだてた。と、のちにミホは夫に語る。
その自虐的ともいえる行いはやがて飽和状態となり、彼女の頭から溢れかえり、「嫉妬」と「憎悪」の狂気の黄泉へと夫を引きずり込みはじめる。奄美言葉でかたられる悪しき存在「グドゥマ」に彼女が乗っ取られていく。

なんともはや絶望的な日常がリアルさを持って綴られているこの物語は激しく重い。

芸術家ってのは破滅型で、付合わされる方はたまったものではない。ただでさえ誰かと同居するというのは常に相手の発する騒音に付合わされるようなものだ。どこかで感覚を鈍くしていくか赦さないとやっていけない。ごく普通の相手に不義理をしていないような関係の夫婦ですら、そういう積み重ねが、相手の憎悪に繋がることすらある。まして作家のように自分の人生切り売りしているような人と共に生活をするのはどんな光景なんだろう。「浮気すら、糧となる」などと開き直られては同居するものはたまったものではない。

ミホはただひたすら仕える妻だった。夫の理不尽さにもおそらく黙って耐えていたのだろうが、一方的なそういう蓄積は悲劇を生む。夫婦とは双方の尊重のバランスがなければ崩壊する。トシオはミホに当然のように甘え、思いやりをみせず、自分の「仕事」に併せろと、併せて当然。と、感謝の心もなしに好きな振舞いをしてきたのだろう。家のことはナニ一つ判らぬ夫。(ま、こういう鬼畜ってよくいるけど。)

とにかく片方のみが常に耐えることを強いられる関係性は歪む。
そして溜め続けたツケを支払う羽目になる。

面白いのはトシオがミホをまったく見限らなかったことだ。ミホの愛が深いように、トシオのそれも深かった。ただもう狂気の、全身に棘をまとい彼を攻撃してくる般若と成り果てた妻の姿を受け止めて、はじめて自らの愛を知ったという感じか。島尾敏雄はこの私小説で、その心理の経緯、狂気の妻に向かうおのれを弱さを、自らを痛めつけながら、自分自身の醜さと対峙していこうと、書き綴っていく。底のない愛の物語故に、透明である。


おりしも、これを読んだのは聖週間だった。説明してきた通り、キリスト教徒達はこの週イエスの最期の道行きを共に歩くこととなる。
イエス・キリストの「受難」の光景は人が体験し得る絶望の光景でもある。イエスが信頼をおいた弟子は裏切り、師の逮捕を知ると皆、散り散りに逃げてしまう。一人は「彼など知らない」と拒絶する。彼の属したイスラエルの民は彼に憎悪をぶつける。受難による死の予感に脅え、一人祈るも、父なる神はその苦い杯を取り除いてはくれなかった。「貴方の御心ならばその通りにしてください」とイエスは祈りを締めくくる。
人々のあざけりと侮蔑の中で、絶望した母の姿が見いだされる。当時もっとも不名誉だとされる磔刑の刑に処せられ、十字架上で叫ぶ「我が神、我が神、我を見捨てたまいしか?」
神は沈黙し続け、イエスは死を迎える。


島尾敏雄カトリックに帰依したという。「死の棘」は「コリント人への教会の手紙」の次の一節から採られたと
いう。

「死は勝利にのまれた。死よお前の勝利はどこにある。死よお前の棘はどこにある。」
死の棘は罪である。また罪の力は律法である。
ともあれ主イエズス・キリストによって私たちに勝利を与えたもう神に感謝しよう。
それでは愛する兄弟達よ、あなたたちの苦労が主において空しくならぬことをわきまえ、確固として揺らぐことなく、常に主の業を励み努めよ。
「バルバロ訳 コリント人への第一の手紙:15:55−58」

島尾がバルバロ訳を読んでいたらしいので、それから引用したが、いやはや難しい個所ですな。

まぁギョーカイの人々は、イエス・キリストの死によって罪から解放されるなんて考えますが、旧約から新約まで神はとにかく人間に超関心がある。そのくせ、なにも手を差し伸べないとか、ヘタすりゃ寧ろ絶望のどん底に落としたり、試したり、とんでもない試練を与えたりする、えて勝手な神である。しかし絶望にあって尚、ユダヤの民は神に語りかける。
エスの受難も同じように、絶望の中にあって尚、神との関係を、絆を持ち続ける。絶望の中で死んでもそれを御手に委ねると、自分自身を差し出す。
「信」という姿のすざまじさがそこにある。

島尾が聖書をどのように読んでいたかは知らない。
しかし絶望にあっても尚、妻の絆を断ちきることはしなかった島尾のこの物語の動機は贖罪だけではないだろう。ミホのみせる愛の深さ、それは嫉妬、仕事も出来ないほどの縛りつけや、過去の探求は、深い愛の裏返しの行為でもあることを知っているトシオは、その絆への「信」ひいてはミホとの関係性への「信」を持っていた。そのミホに対する深い愛の絆を、再び確かめようとしているようにも思えるのではあるが。もっとも醜い姿をさらけ出しあいながらも結びつこうとする二人の、それは夫婦という絆の深さ、神秘の愛の形ではあろうか。それほどまでに深い人間関係を私は知らない。

「十字架の道行き」というカトリックの固有の祈りがある。イエスの受難の行程をバーチャルに体験するような祈りである。島尾はこの物語を書き綴ることでイエスと共にゴルゴダの道を歩んでいたのかもしれない。この小説は島尾にとっての「十字架の道行き」の祈りであるのかもしれないが。

この物語は先の見えぬ絶望的な状況で終わるが、しかしわずかな希望の印象を残す。トシオの心にそれがある。
信-fides、望-spes、愛-caritas という物語を私は知った気がするんだが。どうだろうか。

いずれにしても、こういう濃い人間関係の物語を最近見なくなったような気はするなぁ。
◆◆

そういや昔、カテキズムの勉強していて「愛の反対はナニ?」という話になったんだが、わたしゃ「無関心」じゃないかな?と思った。憎は愛から生まれるからにゃぁ。人間関係において無関心ほど罪深いものはないかも。ただ憎悪ばかりぶつけられても辟易とはしてしまうけどね。


◆◆
そいや、似たような話をどっかで読んだなと、思い出してみたらこれだった。↓

海岸でペンキ塗りの仕事に従事している小説家志望の青年ゾルグ(ジャン=ユーグ・アングラード)は、感情の起伏の激しい性格の女性ベティ・ブルー(ベアトリス・ダル)と恋に落ちていくが、愛が深まれば深まるほど彼女の奇異な言動はエスカレートしていき…。
フランスの俊英ジャン=ジャック・ベネックス監督が、愛の狂気を赤裸々に描き、世界中にベティ・ブルー現象を巻き起こし大絶賛されたヒット作。B・ダルの狂おしい熱演は壮絶でありながらも実に物悲しいロマンティシズムに満ちあふれており、鑑賞後もしばらくの間は余韻を引きずる。

こいつも無茶苦茶、壮絶な愛だった。相手をのみ込まずにはおれない愛の物語。
これも男が小説家。狂っていくのは女。