「魔の山」教養小説にゃぁムカつく

なんというか読み手の鍛錬を目的にしているとしか思えんくらいへ理屈の洪水になりつつある『魔の山』中盤。
人文学者のイタリア人セテムブリーニとユダヤ的伝統の家に生まれながらにしてイエズス会士のなりそこないのナフタ氏が議論を始めてしまったので主人公はほとんどそれを馬鹿のようにぽかんと聞いている状態で、なんだこりゃ?ってな感じ。

セテムブリーニはヘーゲル的東洋への侮蔑(ロシアのことはアジアだと馬鹿にしてるし)と、塩野さん並のローママンセー男(まぁイタリア人だからな)で、かたやナフタ氏と来たらイエズス会的な、あるいは軍隊的な秩序ある神の国を理想とするようなっスコラ学的トンチキ男なんで、既に議論は白熱することが予想される展開。

で、西洋の近代、それもドイツ人的な近代に至るまでの西洋のもろもろの事象が、万華鏡のごとくバラバラと転がり落ちてくるので、そもそもその辺りの教養がないと、意味不明。あるいはハンス君の如く素直に「教養」を受けつけるような素養がないとすこぶる退屈というか、私などは素養も教養欲求もないんで、呆れて傍観しながら読み進めている始末。主人公のハンス君は忍耐強いのでどうもポジティブに受け入れているようだけど寛容すぎだろ?

なんせリアルティのない空間。リアリティなき観念の対話。サナトリウムというただでさえ限定された「上の」世界で、その中でも数名の限定された人としか交流なき世界で、欧州の世界を俯瞰して見ているという、ミニマムからマクロを見る、時間が止まったような、西洋史の歴史というか思想史の中を行ったり来たりしているだけの世界。ドラマチーコな展開もない。

なんだか本読みながら大リーグ養成ギブスをはめられている気分になって、コレを読むドイツ人の忍耐強さたるや相当偉大だなと感心したけどね。楽しいのか?「本を読む」というのはドイツ人にとって鞭で打たれるような、そんな鍛練性を伴うものでなくてはいけないのか?

どうもこの書は自虐的な快感を伴うものらしい。そういう趣味のある人、もしくはセッテムブリーニとかナフタとかに突っ込みを入れられるだけの教養がある人かどっちかしか楽しめないかもしれない。

これ読み終えると(つまりおそらくハンス君はいずれ下界に戻るかなんかするんだろうけど)彼と共に読者も小市民的な価値から解脱した立派なシチズンになれるという按配らしいが、私はその資格はないかもしれない。というか、なりたくないかも。まぁもう少し我慢して読んでみますよ。

因みにハンス君の心の君であったロシア人女性は早々と物語から退場してしまった。また戻ってくるのかにょ。スタンダールが好きな私は微妙に気になる展開だったけどそれはどうでもよかったのか。

個人的にはやはりおフランス人のふにゃふにゃ文学の方が性に合うなぁ。

魔の山 下 (新潮文庫 マ 1-3)

魔の山 下 (新潮文庫 マ 1-3)

asin:4102022023
あとどれくらいで読み終わるんだろうねぇ