アジール

アジールというのは地上の権力、つまり例えば領主や、世俗の権威が及ばぬ避難所のことを指す。
西ヨーロッパ中世においては、教会権力が皇帝権力と対立していて、教会、或いは修道会といったものは世俗の権力に対し自立していた為、例えば領主によって裁かれるはずの罪人が聖域に逃げ込んだ場合は、その聖域の責任者と、領主との間で交渉などが行われたりする。罪人が領主によって不当な扱いを受けている場合などにおいては教会側が弁護する、保護する等の働きをする場合もあっただろうし、有無を言わさず領主に引き渡してしまうなんて例もあっただろうが、とにかく一応「聖域」は領主などの統治権限が及ばぬ領域である。
西ヨーロッパなどで修道院や教会が要塞化しているのは、それが自治的存在であったからであろうし、同様に商業的な都市などもその商業という性質上、一定権力の統治を嫌うゆえ自治性を持っていたりする。イタリアが都市国家が長く、そして同時に未だその性格を持っているのは、都市の持つ固有のリベルタへの自負心ゆえのことだとは思うが。

アジールが生きてくるのは、ある領域とある領域との境を行き来するときである。領域内にいるならそこが宇宙となりその権威に従うべく振舞うことが要求される。改革者ルターが領主の下に逃げ込んだとき、地上の権力が聖域に生きる人間であるルターにとってはアジールとなった。

で、そのアジールについてeireneさん経由で内田樹氏が書いていたのを知る。

○eirene
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070117/p1
■[思想]大学の存在理由

 ミッション系・女子大の存在意義を内田樹流に説明すると、こうなるのか。

内田氏がどうやら女子大意議論を書いているらしいので読みにいく。

内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2007/01/12_0936.php
ぷるぷる

「どうして女子大は必要なのか?」ということについて書く。
書いているうちにだんだん腹が立ってくる。

「女子大は必要ない」という政治判断を支える経済合理主義的発想そのものに対する憤りで、身体が小刻みにぷるぷる震えてきたのである。

教育基本法のときもそうであったが、内田樹氏が経団連(ザビ家)なシロモノに怒りを覚えているのはよくわかる。

「要するにみなさん、ぶっちゃけた話が、いい服着て、いい家住んで、美味い物喰って、いい車乗りたいんでしょ。ねえ、本音で行きましょうよ、ウチダさ〜ん」というようなことを耳元で言われたような不快感を覚えるのである。

こんな不快感。
それゆえに男女機会均等法に内田氏は不快感を覚えたらしいが。それは働きたい女性が上記のようなことを望むことへの不快感ではなく、その前提にある「全ての人がそのように望むであろう」という発想への不快感。男女関係なく、全ての人類はそのように望むのだという考え方そのものに、そこはかとない生理的嫌悪を感じるというのだ。

そして女子大の存在意義を下記のように説明する

社会の均質化・規格化の圧力に対する「否」は、そのような圧力から逃れることのできる「小さな場所」を社会の片隅に構築するかたちで実現されるしかあるまい。
権力や財貨や情報や文化資本が差別化のために過度に機能しないような「逃れの街(アジール)」を同一的な社会の中の特異点として築くこと、それがかろうじて私たちにできることではないか。
女子高等教育機関はその「場違い性」によって日本教育史の特異点であり続けた。私はそういうふうに考えている。

内田氏が教鞭をとる大学はミッション系の学校で、宣教者達によって開かれた。キリシタン禁制が解かれてまもなくのことだったらしい。当時の日本の一般的価値観のなかではまだ異質な存在ではあっただろう。

それは、この小さな場所には明治の日本社会においてドミナントな価値観が入り込まず、そこで学んでいることに誰も値札をつけることができなかったからである。
彼女たちがそこで学んだ最良のことは、自分たちの社会とは価値観や美意識を異にする「外部」が存在するという原事実そのものであった。

と評価している。

我が祖母は明治生まれの人で、やはりミッション系の女学校に行った。彼女が上記のようなことを意識していたかどうかわからないが、友人達の多くが鬼籍に入ってしまうまで、その友人達と交流していたことや、当時の思い出を語るまなざしにはある種の聖域への思いを感じることはある。

女子大ではないのだが、わたくしもミッション系の女学校を出ている。その母校の新聞に記事を書いてくれと頼まれたことがある。そのとき、やはり母校が一種のアジールであったなと思い起こすことがあった。「私達は温室にいた」と当時書いた。その時は世間知らずの中にほおり込まれてきたことの反省もあったのだが、今、世間の波にもまれ、「下流だぁ・・」とか「ガルマ・ザビ(安倍坊ちゃんのことね)ムカつく」とか、「年金どうなるんだろう?」とか、色々、世俗の中でもにょっている生活の中で振り返ると、寧ろあの時代違う価値が存在していることを教えられたことに感謝したいと思う。自分を追い詰めずに済んでいるのは聖域の視野から世俗的価値を見る目をもらえたかもしれない。祖母もそうなのだが、どこかで世俗的な価値を棄てている所があって、それはそういうアジールを持っていたからかもしれない。

祖母は正直あまりいい人生を歩んでいたとも思えない。母の愛を知らない。旦那に早死にされ、戦時下で女手一つで娘を育てた。幸いにして曽祖父が裕福だったのでその残されたもので生きてきたので金銭に困ることはなかったかもしれないが、戦争をはさんだ為に世俗でいう贅沢をするほどの財産はない。母子がかろうじて生きるだけのもの。しかし文句いうことも人生を呪うこともなく、人をうらやむこともなく、とにかく他人と比べてどうとか、そういう価値そのものを持っていない。自立している。そういう価値観はやはりあのミッション校で学んだであろうなと思う。未だその時の宣教師でもあった先生の思い出を語る時、海の果てまで教育の為に来た独身女性のきりっとした背筋を感じさせるような像を再現する。

世俗的な価値の中にわたくしがいなかったのは、当時のシスター達のお陰であっただろう。彼女達はまことに世間知らずで、また政治的なものが学校内に入るのを嫌った。そういう彼女達を世間知らずと批判する人々もいただろうが、アレは実は世事に長けた確信犯的な手法だったのかもしれない。アジールであることを守る為にそうであることを選んだといえる。

昨今のカトリック教会には残念ながらそのようなアジール感を感じない。政治的な言動が多く、辟易とすることがある。聖職者は世俗の政治思想に染まった言動を繰り返すものも多い。聖職や信徒の左にしても右にしてもマスメディアに載っているような発想の言葉で語っている。かと思うとそういう世俗的なものに辟易として背を向けるような人々がいいかというと、そちらもなんだかただ逃避しているだけのようで情けないなぁと思わなくもない。そもそも生きていくうえで社会共同体と関わる以上逃げていても仕方ないこともある。マジに精神的に余裕がないもの以外は。

問題は世俗をアジール(聖域)から見た視点で語っていないことにあるだけだとは思う。

なんだか鼻息の荒いシスター、ベールもかぶらず政治的な言動を繰り返すシスターがいる。カトリックの一部には人気があるようでカリスマシスターとして振舞っているが、彼女の手法や言動には上記のごとき内田氏の抱いた違和感を感じる。どうにも視野が狭く同意できないのはなぜか?と思ってはいたが、内田氏が解き明かしてくれた。アジールであることを放棄した聖職者には魅力は感じない。世俗にそういう存在はいるのでもう充分だ。

聖と俗という分断された世界があるからこそ、人々は救いとなる。しかし聖であることをやめた聖域はただの瓦礫である。

マザー・テレサの吐く言葉がすごいのは、彼女が聖域の価値で語るからだ。彼女は聖域世界でいうなればかなり保守的である。つまり信仰面において相当な保守思想の持ち主であり、ベネディクト16世など足元にも及ばんくらいかもしれない篤さを持っている。しかしその聖域から見た常識で世俗の人と語るとき、あのような解放性を持った言葉に変容する。聖域が世俗で生きてくる瞬間だと思う。

聖域、つまり内田氏のいう「逃れの町」が生きてくるのは、聖と俗がそれぞれに自立している必要はある。全てが「逃れの街」になってしまうならそれは既に「逃れの町」ではない。全てが聖域になってしまうならそれは既に聖域の機能を果たさない。聖と俗の均衡があってはじめて人は解放される場を持つことになる。

カトリック教会内において、その保守性と戦うべくベールを脱いだシスターたちの運動の全てを否定するつもりはない。第二バチカン公会議前のカトリックの保守性については相当トンでもなものあったようで、その時代の話を聞かされるとびっくりすることも多い。しかし少なくとも聖域たらんと守り続けてきた先人の遺産のよきもの。つまりアジールとしての位置を失うことだけはやめて欲しいなどとは願う。

しかし、母校がお受験コースなどに染まらなきゃいいけど。あそこは世間知らずのシスターに運営されるのが一番いいとこだよ。変にセレブ化しないことを祈りますですな。