師匠に話してみた

久しぶりに霊的師匠濱ちゃんに用事もあったので電話した。師匠は相変わらず疲れているようではある。しかしきっとお酒が入っているのか妙にご機嫌だった。
で、病気の報告をして所謂カトギョーカイの神様のサービスとしてそのメニューにある「病者の塗油」をお願いしてみた。これは昔は「終油の秘蹟」などといってなんじゃか縁起でもない秘蹟だったのだが、昨今は「病気の治癒祈願」などというライトな秘蹟になった。そもそも実は中世はそれが一般だったのがなんだか臨終でしか受けなくなったらしい。糞坊主が枕元にこられると病気が悪化すると思ったんだろうか?スータンに身を包んだ生真面目そうな坊さんが枕元に来て「罪を告白しないと楽にならんぞ」などといわれたら嫌かも。

あれはいつやるものなのかよくわからんとですが、師匠は「手術前と術後に一回づつとかもいいよ〜」とか言っていた。「手術で何があるか判らないし、術後に病変することもあるし〜」とか言ってる。をい。不安にさせんで欲しい。
死ぬほど忙しいのにそんな暇あるのか?師匠。「神父様のご都合のいいときでいいっす」とか言っておいた。
子宮がなくなるので、「天使祝詞」の祈りのあの言葉がムカつくとかひとしきり愚痴を垂れているのを聞いてくれた。

天使祝詞

めでたし 聖寵充ち満てるマリア
主御身とともにまします
御身は女のうちにて祝せられ
御胎内の御子イエズスも祝せられたもう
天主の御母聖マリア 罪人なるわれらのために
今も臨終のときも祈り給え アーメン

「御胎内」の「胎」というのが無くなるんですよ〜。祈るたんびに「御胎内」で引っかかりそうだわいの。と下らないことを愚痴っていたら、「新しい祈りなら大丈夫じゃない」などと言われた。
新しい天使祝詞

恵みあふれる聖マリア
主はあなたとともにおられます
主はあなたを選び 祝福し
あなたの子イエスも祝福されました
神の母聖マリア 罪深いわたしたちのために
今も、死を迎えるときも祈ってくださいアーメン

こんな歯切れの悪い祈り文は嫌だ。

ところで師匠曰く、最近の人は「御胎内」がかけないらしい。「御体内」と書いてくるとか言っておりました。うへぇ。ゆとり教育か?

カトリックギョーカイも上記のような口語訳の氾濫でゆとり教育状態ですな。

◆◆
師匠、手術に臨むに当たり「まな板の上のフナと思って・・・」と我を慰めもうしたが、それは「鯉」の間違いでは???わざとかな?

そう、まさに手術は「まな板の上の鯉」だわいのう。こちとらナニも出来ずに、臓物とられるわけで。魚のハラワタ出しってちゃんとやらないと臭みが残る。先生のメス捌きに期待する。

信者的にとっての霊的な「まな板の上の鯉」になる「告解」ってのはkimucoさんも書いておられたが古代では衆人の前で生涯一回やるシロモノだったのよね。教会から離れた罪を告白する。そういう秘蹟。去った兄弟達の和解の為にすることだった。アウグスチヌスなども「兄弟が分裂することの罪」はすごく重いなどと考えていたようで。異端論争で兄弟達がちりじりになってしまうのはどうよ?神学的に解釈が違っているからって相手否定し合ってどうする?それより大切なことがあるじゃん?的に。

「終油の秘蹟」ではその告解が併用して行われていたようだが、「病者の塗油」に戻ってどうなったのだろうか?興味深い。

告解ではこれまたクリスチャンとしてきちんと生活してきたかどうか?など愚痴愚痴と告白するイメージなんかあるケド、病院ならさしずめ「白衣の天使様に心の中で姦淫してしまいました」とか告白する人もいるんじゃろか?私は女なんで流石にそれはないけどさ。普段の告解でもそういう告解はしたことがないのだが。

そもそも「敬虔なクリスチャン」ってナンだろう?
ululunさんとこでululunさんに絡んでいた人がいた。
これ↓

■何故のび太ジャイアンにいじめられるのか
http://d.hatena.ne.jp/ululun/20061113/think061113
初学者K 『これだけは言える。あなたは敬虔なクリスチャンではない。
なぜなら(酷いことを言うようだが)あなたは間違いなく心の中の(誰でも持っている)悪魔を放置している。』 (2006/11/13 10:12)

こんなこといきなり見も知らぬ相手にいわれたかない。うるせえ。
こんなこと言う辛気臭い神父が枕元に来て終油の秘蹟を迫ったら、いきなり棄教するかもな。・・って違った。どつきまわして家から追い出す。

そもそも「敬虔なクリスチャン」ってのはそんなに重要なことなのか?というか「敬虔」ってのがよくわからん。なにを以て敬虔とするのか?見るからに敬虔そうでも敬虔じゃないのなんか五万といるだろうし。

第一、クリスチャンってのはアイディンティティそのものであって、敬虔だから、そうでないからとかそういうことで測られるもんではないし、ましてや人に強要することではない。神の人との関係はそれぞれに違う。
上記のごとき批判をいきなりする人っていじめする人の思考の典型パターンというか、格個の、個の部分である信仰にこのような無頓着な言葉を吐いてしまえるってのは。

ま、とにかくその「敬虔」っての実はよくわかっていないわたくし的にはつねに「告解」についても悩んでしまう。そういうわけで病室でいきなり「告解しろ」と言われたら手術よりやなので。今一度師匠に聞いておこうっと。