グレゴリアンのコンサート

けふ(というか昨日)は東久留米まで行ってきた。
ほんとは東京の母教会で霊的師匠がラテン語のミサやるよんって日だったんだけどそっちはばっくれて東久留米行き。
というか東久留米ってどこ?西武池袋線というのに乗るのだな。なんせ東京にはまだ行ったことがない沢山の土地がある。豊島区とか練馬区ってのはそのあまり行ったことがないところの一つなんだけどその先にある東久留米市ってのは、もしかしたら足の裏を広げたスキヤボデスがだらんとねっころがっていたり、鼻腔族が徘徊していたり、足が三本あるカラスが飛んでいるかもしれない。それくらい暗黒大陸的に知らん。なんせ引きこもり大王としては関東一円行ったことがないところのほうが多いからな。

黄色い車体に銀色のかわいい電車に乗って行くらしい。それでちょいとうきうきしていたが既に池袋で迷った。西武池袋線の駅が見つからない。素敵なサリーを着たインド人がいたのでなんとなくその後についていったらやっとあった。しかし豊島園行きとかいうのに乗ってしまい変なところに連れて行かれそうになる。まったく恐ろしい。やはり西武線沿線は暗黒大陸かもしれない。東久留米市はわたくしにとってのティンブクトゥかもしれないぞ。永遠にたどり着けない約束の地。

そういうわけで思ったより時間を取られてしまったわたくしは東久留米市に着いた時はもう開演すごく間近状態で慌てて歩くも、道も間違えてしまう。マクドナルドってどこだよ????
素敵に武蔵野な東久留米界隈を堪能したくても気がはやりだくだくと歩いてたどり着いたグレゴリオの家の静かなたたずまいはこれまた素敵だった。ドルチェだのう。
かくしてわずかに開演に遅れたけれど聖堂内は既に聖なる調べで満たされていて、わたくしめも天上世界へといざなわれましたですという按配。

聖堂で聖歌隊服を着た人が並んで甘美な音をつむいでいく。その祈りの為の音に身を委ねると神との対話が出来る・・はずが、なんかへんだにょぉと思ったのは指揮者がど真ん中にいたことだにょ。礼拝になんで指揮者が???よく考えたら今日はコンサートだったのだな。

演目は、ルネッサンス期のスペインの作曲家ヴィクトリアたらいう人と、中世の礼拝音楽。どちらもえらく古い。古楽の部類。祈りの為の音楽だけあってやはり黙想する方向に行ってしまう。つまりあまりに心地よすぎて眠くなったんだけどね。

ヴィクトリアの作品はルネッサンス期だけあって洗練された軽やかで優美な、或いは甘美(ドルチェ)な音で明るい色の光が降り注ぐような音だった。キラキラと輝く繊細な色が束になって流れていくような感じ。目玉は「ヨハネ福音書」のパッションの朗読箇所。聖金曜日に行われるこの朗読箇所は長くて30分もあるのだけど、その30分を感じさせない緊張感に満ちていた。
他方で最後の演目だった中世の音楽は、厚い壁に覆われた暗がりの中で光がわずかにあるような音で、深緑とか重厚な色合いを感じさせるような音だった。何度も繰り返されていくフレーズが、一つ一つ小さな塊となって積み重ねられていくような感じ。

とにかくどちらも祈りの為に作られたということを改めて実感させられる音楽だった。なもんで演目終了時に皆さんが拍手していたので思わず「なんで?」とかうっかり思ってしまいました。礼拝じゃなくてコンサートだったんだよな。

優れた音楽はたやすく祈りの空間を構築する。それはすごいことだと思う。もうね。悪いけど日本の典礼音楽はちょいとなにですよ。祈りに向かえなくて困るですよ。と思ってしまいますね。

コンサート終了後、誘ってくださったSさんと食事をする。音楽家というのは繊細で感受性が豊かなのか喜怒哀楽も非常に豊か。で、ミスドに入ったときに珈琲のお代わりをウエイトレスさんが持ってきたときに「え!お代わりなんてあるの〜!」と激しく嬉しそうにしていた。ミスドでこんなに全身で喜ぶ人は滅多にいないだろう。
そういう豊かな感受性が拾う音が今回のコンサートにも反映されていたと思う。
因みに「音楽作業に入ると、すごくピリピリしてしまって家族に対して鬼畜なるのよね〜」と仰っていたが、展覧会前のわたくしもそうなるので思わず同意。芸術家はどこかで鬼畜なんだよ。わがままで済みません。でも微妙にわがままに徹しきれない中途半端さが自分を三流画家にしているのかもにゃぁ。