平和の道具その2

北朝鮮がまた核実験とか、北朝鮮がほんとに核実験したかわかんないとか、色々ニュースになってますね。いずれにしても核実験というか北朝鮮は核実験を政治カードにしてますよって感じで、単純な実験でなく政治の駆け引きに使いたいみたいですね。
つまり暴力をちらつかせて筋を通そうという暴力団みたいなやり方なわけで、国際政治的にこういうのは赦せんのがまぁ普通でしょうねぇ。

さて、昨日、平和についてのレクチャーを受けたよって話で、宗教的にはこういう場面での解決は「対話」を尽くそうよというのが筋。気が狂った暴力的な人にも話をつけましょうというのが宗教的人間。
ついこの間、ベネ16さんがイスラムに関連したことを言ったとかで批判を受けたけど、あのときベネディクト16世の講演の趣旨は「暴力による解決でなく理性による解決」「言葉によって、対話によって物事を解決しましょう」というような話をしていた。で、現代社会の概ねの大国はその線で本来やっていこうじゃないかと目指してはきたわけですが、しかし北朝鮮にせよアメリカ様にせよイスラエルにせよパレスチナのゲリラにせよ、大国も小国もあいも変わらず暴力。

まぁ「争い」というものは本当に悪なのか?というと、例えば「三池争議」みたいに戦わないと権利が勝ち取れなかった戦いもあるし、フランス革命だって戦いによって勝ちえたけど、そこには多くの死があったわけで。だから戦争(争い)とか平和(平安)とかって善悪で単純に見ることが出来ない面もある。

現実に生きる人間はそうやって獲得しないと前進できなかった。しかし宗教者は「争うな」という。それは人類の良心の所在として、それゆえに聖なる領域に、霞み食ってるみたいな位置にいて、言い続けるのが、これもまた必要だったりもするだろうと。そういう点で「敵を作るな」という絶対的な平和主義というのは非現実的とはいえ、必要な、いつかたどり着きたい領域としてある。みたいな存在かもしれない。


人間というのはなんと矛盾した生き物なのか。やれやれ。


わたくしとしては宗教的な意味での平和主義者というより、単純に痛いのとか苦しいのは嫌いだから戦争も嫌いというまことにチキンな理由で平和を望むけどね。
怖いのは嫌だよね。島の家の前は東シナ海だし、隣の島には日本最大のアメリカ軍の基地があるし。本土にいるより色々怖いよ。

で、先日の海上保安庁でも昨今は様々な危機に対応するよう、それに見合った訓練が強化されているようです。いわゆる不審船のみならず、漁業従事者への対応、もしくは震災時における危機管理等、働くおじさんたちは頑張ってるみたいです。

そういえば東京にいると北朝鮮の核やらミサイルより、武装スリ団とか窃盗団とか、大地震とか、すぐ切れる電車の中の兄さんやおっさんの方がもっと怖い現実かにょ。