改めて坂東眞砂子のエッセイを読む

すでに秋秋などと言われているネタだが、島はまだ夏だしな。というより、eireneさんが全部読むといいですよ。と連載をご親切に送ってくださったエッセイを全て目を通したので改めて色々考えてみようかと思う。

何故この一連の騒動が気になったかというと、まず私自身が島と都会をいったり来たりという生活で、野生と管理社会、田舎と都会、そうした生活の中のギャップというものの中間点に身を置いているせいか、彼女が感じる位相というものを常に実感させられているからといってもいい。だから彼女の記述に嫌悪を感じなかったのかもしれないし、かといってやはり自分は殺さないだろうと思う故に何故選ぶのかな?と、そういう私自身が感じる位相について彼女のエッセイを回を追って紹介しながら、自分もあれこれ考えてみようかと。

■第1回 生と死の実感
坂東はこの単元でタヒチの生き物達の死の光景を描いている。タヒチの動物の野ざらし日記。死骸が点々とあるタヒチの光景を描く。既にあちこちで引用もされているので詳しく説明するまでもないとは思うが、タヒチの道路ってそんなに死骸がゴロゴロしてるんだ。すごいなぁ。とちょっと感心した。生息している生き物の数が違うんだね。
そこまですごくはないけどうちの島でも動物の死骸はよくすっ転がっている。こないだはうちの家の庭にでかい鼠の死骸がすっころがっていた。なんか片づけるのも面倒なのでそのままにしておいたらいつの間にか無くなっていた。夜中になんかの動物が来てもって行ったのか、お隣の旦那さんがもしかしたら片づけちゃったのかもしれない。だとしたら申し訳ない事をした。他にもヤシガニが轢かれてつぶれているのとか、野鳥が猫にやられたのとか、モグラとか、なんだか色々死んでる。地べたに貼り付いてナニがなんだか判らない死体とかがある。タマに道を歩いていると腐敗臭がして「あの茂みになんか死んでるなぁ。」と思ったり。

うちの島は以前も書いたが土葬である。土葬なんて昔だったらゾンビが穴っぽこからぞろりと出てきそうで、絶対そんなところのそばには寄らなかっただろうけど、今は平気である。当り前に見慣れると平気になってしまう。だから都会の人が墓を怖がったり、忌みものとして嫌うのがなんだか不思議になってしまう。昔は私も怖がっていたくせに。

坂東は死を見詰めることで生の実感が得られるという。そうなんだろうか?
あんまり意識したことがない。動物の死骸をいくら見ても、土葬の墓を見ても、私としてはたいして生と死という切り口では変わりない。せいぜいお化けを怖がるというレベルが変容しただけで、元々死ぬことが怖かったという記憶がない。今もない。死ぬのが怖いのは苦痛が伴いそうでその苦痛が怖いだけで。今眠るように死んでもナニも怖くはない。痛いとか苦しいのが嫌。
死への恐怖と、動物達の死とはわたくし的には関係がないかもしれぬ。寧ろ身近なものの死の方が辛い。人も飼っている存在達も。サボテンを枯らしてしまった時、ヒヨコが死んでしまった時、揚羽蝶が孵化しなかった時、飼い犬が死んでしまった時、リスが死んでしまった時。その生き物がでかかろうが、小さかろうが、動物だろうが、植物だろうが、目の前で萎えていく存在を見るのは辛い。自分の死より他の存在の死の方が辛い。それと引き変えに生の実感などは感じない。

その辺り、坂東さんと私とで感性に違いがあるかもなぁとは感じる。
だからこの単元はあまりピンとこなかった。

■肉と獣の距離
よく都会の子が切り身になった魚しか知らないのでそれがどんな姿をしているのか知らないなんて話がある。坂東さんはこの単元でそういう食に連なる生き物の生とそれを殺して食べることとを書いている。自分の手を汚さず食べるというのはどうだろうか?と彼女は問う。人間は自分が殺せる範囲の生き物を食べるべきじゃないかと思い、それを実践しているそうだ。

うちの島も山羊なんか飼っているがあれは食いもんだ。お祝いの時に潰す。いなくなったら、へぇ。食べられたのかぁ。と思う以上の感情はわかない。私は絞め殺して食べたということがないのでよく判らないが、魚介類なら料理することもあるわけで、ビチビチと暴れるエビを、食いにくいなぁ。。などと思って食べたりするんで。上に書いたように「目の前で萎えて行く生き物」を見るのが辛いはずなのに「食う」となったらいきなりそういうのが抜け落ちるのが我ながら不思議だな。
ところでミモザがさっき居間で暴れているのでナニかと思ったらイソヒヨドリを口にくわえていて、羽根が床に散らばりまくっていた。「あんたナニしてんの!!!」と脅かすと離したもんで鳥さんはアトリエに逃げ込んでしまった。げぇ。アトリエの天井高は4メートルを越す。しかも外に向う開口部が高いところにはない。どうしたらいいんだろう。追い出そうにも高いところへと向かう習性のある鳥さんは出て行きやぁしない。困った。
・・・にしてもミモザが食べようと思ったのか判らぬが、狩りをしようとするところを思わず止めてしまう心理ってなんだろうね。自分は魚とか採って食べる癖に。思えばミモザがまだ小さい頃、ミモザ兄弟達は母犬が採ってきた鳥さんを奪いあいながら食べていた。うへぇすごい逞しいなと感心したが、それが嫌だとは思わなかったところを見ると、殺す瞬間を見るのが嫌だとかそういうことなのか?いやそれよりも、単に部屋が汚れるからやるなら外でやれよって心理の方が強いかね。我ながら殺伐としている。
かといって、外でやったとしても攻防を繰り返している光景では鳥さんの味方をするだろう。内的矛盾である。

閑話休題
どうも目の前に生きて動く生き物を食べるということへの後ろめたさは坂東さんほどあまり感じない。島のあちこちで見かける山羊を潰して造った山羊汁も勧められたら食べるけど。けどまぁ共食いなんで、なんか気分的にやだっていうだけで「後ろめたい」と思う事はない。解体しているところを見たらグロテスクでなんか気分的に食べられないということはあっても。様々な感性の違いがあるもんだと思ったりもする。
ただ自分が飼っている脊椎動物を食べるってのはまだ経験していないからどんな気分なのかは判らない。これに関しては、もしかしたら竹下さんが書いていた「共同体を共有する固有名詞のついたもの」か?否か?という事も作用するのか?

しかし常に生活していると、命を奪ったのだという実感は確かに湧かない。日本では食物をいただく時に「いただきます」という感謝の言葉を言うけど、これは実に重い言葉かもしれない。そういう気づきをこの単元で坂東さんは語っているのだと思う。

付喪神のいる島
坂東さんがヤドカリがあらゆるものを背負っているのを見て感心している。キャップの蓋とか、ガラス瓶などを背負って歩くヤドカリ。滑稽な光景。うちの島のヤドカリもそうだ。背負えるものはなんでも背負う。ありゃゴミがと思うといきなり動き出す。もっともそういうゴミよりも貝の方が多いんで滅多にみれない。島のボランティアが定期的に浜を掃除するのでヤドカリも背負う暇がないのだ。おじさん達に感謝である。


ものが用途とは別の使われ方をするという発想の転換、柔軟さをここでは指摘している。というかゴミ袋のレインコートはわたしゃカナの雨散歩の時に使ったけど。見た目悪いけど実用的。そもそもパンクファッションというのはそういう代物だったし。ビビアン・ウエストウッドが話題になったのはまさにそのゴミ袋をファッションにするという発想だった。

モノゴトが専科しすぎて柔軟性がなくなっているという指摘。どうなんだろう?
確かにデパート行くと用途別に用いるあらゆるものが売ってるなぁ。でもあんなに全部買っていたら家が狭くなるんで嫌だよね。応用を利かせることが可能ならそれですます方が楽だ。
ただ「潰しが利かない人間はリストラされて困る」という指摘・・・美術系の潰しが利かない私にはどきっとする。というか潰しが利かないって・・どうなんだろう。レジ打ちだってはじめは初心者かもしれないけど覚えたらやれるようになると思うんだけど。とうの立ったおばさんだから雇ってくれないし。雇う側が決めつけている側面てあると思う。よっぽどの専門職じゃない限り。あ、そうか。そのよっぽどの専門職が増えてるって事か。世の中のことに疎いんでよく判らんとです。でも職安にこんな人が!!っていう人が沢山いるんだろうな。

物事に対し柔軟たれ。とこの単元で坂東さんは言う。まぁその通りだよね。

■天の邪鬼タマ
これはあちこちで紹介されていたから説明するまでもないと思う。子犬の話だ。
子犬殺しがメインの話ではなく誰かになり代わろうとする人間心理の話。ファッションリーダーなり、憧れの人なり、そういうのを身にまといたいとする人間心理。誰かの真似をすることで安心する人間心理の話。

まぁ、ここでいう天の邪鬼とは違う、他人と違うことをしたがる天の邪鬼なわたくし的には「へぇ〜」ぐらいの感想しかない。ただ化け猫レベルの年齢になったからそう思うだけで、子供の頃は確かにみんなと一緒でいたかった。なんせ母親がこれまた他人と違うことをよしとする性格だったので、友達が持っているようなものを持たせてもらえなかった。今思えばお洒落なものを持たされていたんだけど、ガキにはそんな価値は分らんから、キャラクターものを持ってる友達が羨ましかった。ねだりまくったが無視された。でももし今、私に子供がいたら同じ事したかもしれない。親の因果は子に報いってやつだな。

ただ、坂東さんの犬の光景は「誰かになりたい」という心理じゃない気がするんだけど。犬は嫉妬するよ。自分を優位に置いておきたがるね。ミモザもカナが座っている場所をよく取る。そうやって自分の優位性を誇示しようとしている。まぁカナがマジに怒るとミモザはまだまだ弱いんだけどね。
それよりタマにも犬小屋つくってあげるのがいいと思うんだけど。どうだろうか?

(続く)
この間にアトリエで潜んでいた鳥さんが流石に耐えかねて再び活動しはじめたので、アトリエの電気を消し、居間で張って待っていた。「鳥の脳味噌」というくらい鳥は馬鹿だからな。案の定、明かりに釣られて居間に出てきたのでようやく外に追い出すことが出来た。やれやれ。

■風の明暗をたどる(山頭火
漂泊の詩人山頭火の話。「漂泊」するというのは自然に属することであり、自然に委ねるという安心感を土台にしてこそ魅力的なものとなる。「放浪」とは、安心感を失ったはぐれ者のイメージがある。とのこと。しかし現代は全ての土地が誰かの土地であるが故に「漂泊」という気分にならないことが多い。という単元。
ちょっとピンとこないのは「漂泊」というのを味わったことがないからかも。自然の一部になる。という実感ってどんなものなんだろうね。私はチキンハートなんで自然に委ねるってのが出来ないかもな。安全な場所で「うへぇ今日の海は津軽度が10もある!」などと言ってるのが合っているや。

■魚市場の女呪術師
「日本人は歩き方が早いよ。」という単元。タヒチでゆるゆる生活をしている坂東さんも現地の人に「女呪術師」と渾名されるくらい早いそうだ。というよりナンで足が速いと女呪術師なのかそっちが知りたいけど書いていないや。
で、これは昔何かで読んだのだけどマジ統計的に世界でも類をみない早さだそうだ。計った人がいるってのがすごいね。
本の時間の流れ方は確かに早い。追われている気になる。島はその点すごい遅い。めちゃ遅い。3年前に頼んだ仕事が未だに着手されないんですけど。いいんでしょうか?

■子猫殺し
有名な単元。敢て言及するまでもない。
「崖から落とす」てぇとうちの家の前の崖から落とすと海にどぼんだ。生きている生き物を落とそうとは思わないがそれでもカニは投げたな。海から間違って登って来たと思ったから返したつもりだったのだが、陸棲だそうだ。正直すまんかった。
そういえばはじめて犬や猫の避妊手術の話を聞いた時、そこまでして飼いたいのか?「異常」と思った事がある。避妊手術がまだ一般的じゃなかった頃、それは犬の尻尾切りとか耳切りとかと同じように、いや、それ以上にグロテスクだと思った事がある。いまや自分の犬にそういう事をするのが当り前と判断するようになった己の感性の相違ってのはナンだ?とは確かに思う。

■名前はまだない
昔の人は名前が沢山あったけど現代は一つだねという話。国家管理体制の元で名前は一つにされてしまった。名前の固定化は自己認識を固定化する。・・「名前はまだない」という言葉から受ける自由さについて。
夫婦別姓となると更に生涯の名前が一つになるなぁ。でもこれはある種、自由さを求めての固定化だよね。でもシステムが一方の配偶者が名を変えることを要求しているからねぇ。元々はもっと不自由といえるけど。

そういえば家の事情から私は性を変えることになるかもしれない。所謂「養子縁組み」というのをするかもしれないんだけど。「戸籍上の名前が変わるだけだから〜」と母はいうけど、ちょっと待て、パスポートとか銀行とかどうするよ?なんか性が変わるとあれこれと変えなきゃいけないものがあると妹が結婚した時にぷんぷん怒っていたのを思い出した。面倒くさそうで嫌だなぁ。パスポートの性が変わるのはいいけど、シャルル・ド・ゴール空港で「マッダ〜ム○○。いいかげん。搭乗しろ!このボケが!!!」などと言われても気づかないことありそうだな。(<名前呼ばれの前科有り)

名前が変わるってのはどんな気分なんだろう。でもわたくし的にはすごく面倒くさいのと「結婚したの?おめでとう」などと言われるともっと嫌だし。説明ももっと面倒だな。お役所は「通名もいいよん。」ってしてくれないかなぁ。銀行口座は屋号扱いでもいいのか?

◆◆◆◆

各単元にまぁどうでもいいような所感を書き連ねてみたけど、確かに流れで読んでいくとあのグロテスクとも思える第7回の印象は薄れる。扇情的で「釣り」を意識しただろうこの項の印象は薄れる。ただ全体として読んだ時に、それぞれに対し「そうかなぁ?」と思わず間の手を入れたくなるようなモノが多い印象。そういうなにか共感を持って読めないようなのが多いのは何故だろう?

確かに位相を感じている。現代の日本における当り前になったような感覚に一石を投じたいとするのは判るが、どうもリアルさを感じない。生と死の光景を例えば多くのブロガーがかつて見た光景としてここに挙げられたような「食う為の死」或いは自然の豊穰というものを書いていたが、そちらのほうがなにか共有出来るものがあったと思う。

だからそのような繋がりが持てない中で「釣り」としての子猫の「崖から投げ落として殺す」という光景だけが浮き上がって反対側に位置してしまう。これでは読者、特に猫を身内と思って暮らしている人に「生理的にダメダメ!」といわれても無理ないんじゃないか?なんだか全部読んだあとのほうが寧ろ彼女を批判している人達の気持に近づいたような気がするぞ。あれま。どういうこった?

なんだか「エッセイはあまり上手くない人なんだな」という感想になってしまった。

小説はいいのにね。因みにこれ読んでも「ホラー」って印象は欠けらもないです。それについては紹介したマスコミの形容詞に引きずられている人が多いかも。あと「売名行為」というのはピントはずれだとは思う。テーマとしては一貫している。ただ下手くそなエッセイなだけで。なんというかロジカルでもないし、情に任せてどろどろするわけでなし。素人ブロガーさんでももっと上手い人がいると思うです。


で、まぁ彼女を精神異常者扱いしている人も多かったのだけど、それは流石にどうなんだろう?しかもサイコパスなんて猟奇殺人犯呼ばわり。そもそもサイコバスの定義ってナニ?うひょひょひょひょひょ〜などと快楽を感じて殺したりする人の事じゃなかったっけ?
◆◆
てるてるさんもエッセイを読んでアップなさっていた。まとまっているので読んでくださいです。
○てるてる日記
http://terutell.at.webry.info/200609/article_1.html
坂東真砂子さんのエッセーの感想

◆◆
愛猫家・大蟻食先生がついに炸裂してしまったので備忘として張っておく。
佐藤亜紀日記
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2006/09/200693.html
↓要旨(印象訳)
食べたいほど猫が好きで悪いかボケ!
言論者なら火つけられるのも覚悟しいやこのふ抜けが! 
猫権が何故拡大したか考えんか!!!このど単細胞共めが!


ここまではじけると流石に潔い。けど、句読点がない・・・・_| ̄|○

猫権とか犬権とか、キリスト教だとうんちゃら・・・と、はじめると続きそうなのでそろそろバカンスに入りたいからやめとく。
その代わり、動物の守護聖人を貼っておきますね。今日の原稿はこれだったんよね。