公人と私人/靖国・欽ちゃん・秋田母子殺人

最近、昭和天皇のメモが見つかっただのなんだのとニュースがかますびしい。先の陛下がなんでもA級戦犯が合祀されたことでご不快に思い参拝しなくなったとかそういう内容のメモだとか。
よくわからない。捏造だ!とかいう人もいる。メモなんで走り書きっぽいし、どうとでも取れる。

それより、陛下の公人としての振る舞いと私人としての感情と一緒くたにしてしまおうってのはどうなんだろう?


カトリック教皇は近代に「不可謬」などといわれるようになった。「教皇に誤謬なし」つまり教皇は過ちを、間違いを、言わない。教皇が発することをカトリック教徒は信じ、また守らねばならない。
でもこの場合の「教皇」とは「教皇」という肩書きによって為される公的な文書に於いてのことであって、教皇職についているただのおっさん(例えばラッツインガー)が「俺にんじん嫌いだ。あれは悪魔の食い物だ」などといってもそれは別に関係ない。「にんじんは滋養があるし食わねばならん。いい年こいて悪魔の食い物などというほうがおかしいわよ」と側近のシスターに一蹴されて終わりである。或いはベネディクト16世の名に於いて公的に「プラダの赤い靴を教皇ははかにゃいけない」などとなったら今後のローマ・カトリック教会教皇はすべてプラダの赤い靴を履くことになるが、ラッツィンガーがそういうことほざいても「猊下、贅沢は敵ですわよ」などと一蹴される。そういうもんだ。

公的に出される文書は多くの人々の話し合いと検証ののちに出される。中には数百年、モノによっては千何百年の論争の果てにようやく出されるなんてシロモノもある。

「公的」とはそういうものであり、いくら教皇個人が「でも、もにょるよなぁ・・・」と思っていてもそうもいかない事柄というものも沢山あったりする。


昭和天皇」という公人の職務である陛下と、私人としてのヒロヒト陛下とでは、結論されるものが違うものがあると思うのだけど。そしてそれと同じことが靖国参拝問題を通じて云々されているんじゃなかったっけか?小泉君という私人としてなのか?内閣総理大臣としての公人なのか?小泉首相自身この辺りどう考えているのかよくわかんないんだけど、とにかく、文脈を一致させておかないとそれぞれ矛盾が生じてしまうと思うよ。


で、ニュースは相変わらずあの屑なたれ目名爺のたわごとを引き続き流しているようだ。これに関しては再びuumin3さんが取り上げて、イライラしておられるがまったく同感である。

公と私を考えるヒント
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060722#p3
 結局、今日新潟県魚沼市の球場で、茨城ゴールデンゴールズの解散を撤回する萩本欽一氏がいたわけですが、個人的感情は別にしてこれは公と私というものと個人の関わりを考えるヒントぐらいの意味はあるように思えました。

「俺やるよ」などといってる映像が流れたので、またまたテレビを破壊したくなった。むむう。
皆が「やめないで」「続けてよ」などといったので気持ちを変えたらしいが、しかしなんだ?個人が一人で負うことならそれはそれでよいだろう。しかしチームが存在し後援者もいるというのはいくらアマチュアの集団とはいえ、共同体化した時点で公的なものになる。少なくとも少人数が形成する社会とはいえその社会においては公的存在であるわけだ。そういう場合進捗等についてはよく話し合った上で発表するなりするものだと考えるのだが。

このおっさんは「僕ちゃん不愉快だからやめる」「みんながやめないでって言ったからやっぱやる」なんだそうで・・・・もうね。ガキか?勝手にやめくさってどっか行きやがれ。後任にはちゃんとした大人の監督を据えたほうがチームの為にいいと思うよ。

すーふり並みのレイパーな山本某にはまったく同情もしない。除名されて当然だろうよ。他に一緒になってやってるやつがいるなら連座だな。しかし他の真面目なチームメンバーや後援者はこんなおつむの軽いボスをボスとしていてほんとにいいのか?


この光景もuumin3さんが指摘する通り公私の問題だろう。欽ちゃんはただチーム私物化しているだけ。しかしチームを束ねるものは責任がある。それはどんな社会でも同じでありアマチュアだろうがプロだろうが「責任者」というのはその名の通り「責任者」であり、場合によっては罪をも背負う覚悟がいるからこそ、また罪を犯さぬよう指導しなくてはいけないなどと思うのだけどね。そして組織化した時点でどんなものでも公になるのだということも。


しかし、この論法に従うなら「昭和天皇にはやはり戦争責任があった」ということにも通じてしまうか。うわ((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル
ええっと、ただ責任とって退位という道の他、あえて退位せず、過ちを正しい方向に導く為に尽力するという方法論もあると考えるなら陛下はそういう道を選んだのか?とか、まぁ色々考えることもありますね(←地雷ゆえに弱気)。とにかく「天皇」という存在そのものが日本人の宗教観とも関わるが故に他宗教な思考のわたくしには感覚的に共有できない。それゆえになんとも結論できない事柄ではあるのだが、しかし前述の事柄も含め公人としての天皇と私人としての天皇ということはこれから論議されてゆく事柄になっていくのだろうかなどと思うです。日本の宗教観のよさはそういう説明を要しないことだったんだけど、そうも言ってられない辛い時代が来たということではあると思う。
とにかく、陛下と戦争と責任という件に関しては異論をもたれる方もいると思いますんで、ある方はコメントくださいです。


さて、こういうアマチュアの共同体という単位の「公」のみならず、我々が誰しも関わる「家族」としての「公」と言うものもあるなぁなどと思う。


秋田の母親による子殺し。更にそれを隠蔽するが故の子供の殺害。これは「家族」という共同体における責任者である母親の責任の放棄とも考えられるし、こういう子殺し、或いはこの事件ではないのですが無理心中が多いということなど、子供の私物化の光景というのはやはり日本固有なのか?などと考える。


「聖家族」という理想像をカトリック教会などは持つんだが、理想の父親、母親、子供という像を提示することで、人は家族という共同体における責任をどのように果たすべきか知るということでもあるのかもしれない。自分が親として家族になったことないから分からんのだが。

昨今は親が「自分がやりたいこと」を優先し、夫、妻、或いは子供の前で、妻の夫であること、夫の妻であること、子供の親であることが優先されない状況というのはよく目にする。家族という最小の公的な空間が私的な事柄で破壊されていく。離婚も多いし、渡辺某の「あいルケ」だかなんだか知らんが不倫推奨とか、もうね。馬鹿か?

我が家はこの「公」がかなり厳格に意識させられ、家族といえど「私」によって「公」を破壊することは赦されないという暗黙の了解があった。「家族」という空間は奉仕する場であり、他の構成員が何を望んでいるのか?ということは絶えず意識させられるような環境にあった。
・・・・こう書くと異常に見えるけど実は一昔の家ってわりとこういう考えが多かったんじゃないかな?(長男辺りは家の犠牲になるパターンが多いケド他は自立させられたりするし。)滅私というのはどうも否定的に捉えられがちだけど、実は共同体の維持のための知恵でもあった。そしてそれを守っておくなら実は自己の領域に他人(この場合親兄弟)は入り込んでこないという家族内自立すら可能になる。だから我が家は家族の「私」の部分である各個人の仕事の領域や或いは思想については遠慮があり、本人の意思を尊重するという空気があった。そのお陰かかなり自立という面では楽だったなぁ。侵食せざるを得ない場合は説得、もしくは徹底した議論付だった。なもんでこんな屁理屈な娘が出来上がってしまったといえる。

秋田の女性は「子供を疎ましい」と思っていたという。既に解体しつつある「家族」を彼女が責を負い守ろうとしたいという理想像と、奔放な私人として生きたい自分との葛藤があったかもしれない。後者に於いて「子供は邪魔」になったのかもしれない。わが祖母も旦那に早く死なれた後、縁談話が来たが「子供はどこかに養子に出してくれ」という要望に頭に来て蹴ったといっていましたです。そういう価値観をもつものが現実にいる。

しかしいざ排除してのち「公」である母親としての子供への責務を、(自ら殺めることで害してしまったという行為に於いて)遂行していない自分の像を正しい方向(子に死なれた母像)に糊塗していく様は哀れでもあり鬼気としか言いようがないものでもある。もうナニかが切れているとしか言いようがない理解できない方向にどんどん行ってしまうわけなんですが。はぁ。

正直、哀れと思う前に、怒りしか覚えない事件ではあったものの。なにかこの母のやるせない身の、その置き所はなかったものかとも思います。

自分的には、子供というのは自分の大切なかけがえのない存在でもあると同時に公の存在であり、私人が個人として勝手にどうこうできるもんじゃないなどと思ったりしますです。なんというか預かり物みたいな。社会におくりだす為に神様から預かっている的な考えもどこかにあったりします。。

まぁ子供がいないんで、わからないんですけどね。とにかく頑張って次世代を育てている世のご両親方には頭が下がりますです。

色んな公私について徒然考えてみました。