キリストの身体である教会

よくこういう意見を聞く。
「イエスはすごいと思うけど、キリスト教は嫌い。」
キリスト教、或いはカトリック教会のしてきた歴史を思えばなるほどよく分かる意見だよね。
あるいはキリスト教会の権威を否定する、批判する。
カトリックは権威的でどうも馴染まない。」
教皇とか偉い人がいて全部決めてるとか変じゃないの?
神父を通さないと神と会えないっておかしかないか?

・・・・・・・・・・まぁ、そりゃ誤解だというか、そう批判している人が思っているような組織ではなく、かなりカオスなのは中にいるとよく分かるんだけど、まぁ外から見るとそう見えるのかも。


教皇とか司教とか、聖とか俗とかそういう役割分担って、責任所在の問題なんだけどね。でも、確かに判りづらいよね。中にいてはじめてどんな風に多くの人がうごめいているかよく分かる。全体主義ではないことだけは確かなんだけど、多くの人は自分が知っている組織を通じて理解しようとするから誤解するんだろうとは思う。いや中にいる人すら誤解している人がいる。
「司祭って権威あるよね。」的な。神父である自分をどこかに誇る時にその辺にいる他者と違うんだぞ的な優越性。そういうの持ってる人もいる。


ところで、師匠濱ちゃんは団塊の世代ばりんばりんなんだけど、あの学生運動真っ只中の時代でも、司祭になったときも、そして今もなんら変わらずに自分のスタンスが変化することもなくはっきりあるっていう稀有な人だ。イデオロギー的でもなく、妙に護教的でもなく、自然体な自分を貫いているだけ、つまり自分が良しとしたことに忠実という、そういう生き様をしてきた人で、そういうのは昔で言えば職人さんに多かったと思うんだけど、揺らぎがない。他者がなんといおうと他者に流されないで地に足が着いている。なんだか生粋のプロレタリアートな人間というか。
先日お会いして、そういう師匠を改めて認識してしまった。


師匠ってば、なんだか壮大な理想論を語るわけでもなく、イデオロギーを語るわけでもなく、こういうことをやりたい野望のかたちというものが明快にあるわけでもなく、教会という場に必要とされること、それで自分がナニをしたらいいのかってのをひたすらもくもくとやり続けている。だから仕事的には、教区の仕事に於いては教区司祭に徹し、秘蹟の施行に忠実であり、また別の仕事も抱えていてそれに於いても職務にただひたすら忠実たらんとする。組織に対し斜に構えて批判するわけでもなく、忠誠を誓うという昔かたぎの企業人みたい。そこに属した以上、その組織に責任を負うのだという覚悟があるのが潔いというか。この手の人間って、現代に於いてはほとんど死滅してるよなぁ。
例えば自分が何をやりたいかが前提にあったりする人は多い。或いはその組織がどうあるべきかといったときに、それを言葉で語ることはあっても、実践においてはあまりやらないというか、口先だけの輩が多すぎるよ。そういう中で、誰かがやらないいとしょうがないことを(まぁぶつくさ文句垂れながらだけど)師匠はやり続けていたりするのが偉いよなぁ。


こういう実際的な人をわたくしは尊敬してしまうです。
きっと師匠は歴史には名は残らない。
どこぞの司教みたいに本を出したりもしないだろう。どこぞの司教みたいに政治活動もしないだろう。そんなのはその人の個人の行いであって、教会のための行いとしてよりも自分自身の理想が優先されているようでもあるよね。或いはどこぞのカリスマ的人気司祭みたいな人気もない。ただ地味に秘蹟を遂行するだけなんで、人気取り的なそういうことはナニもしない。だから目立たない。
隙間家具的な仕事ってのはどの世界にもあって、そういう目立たない場所ってのは評価されないが故に人はなかなかそういうことをしたがらない。評価が欲しいのが人間の本性ゆえに、評価されないような仕事にはつきたがらない。でも誰かがやらないといけない。(師匠はそういう仕事を抱え込んで身体を壊してしまうのが困るけど)


師匠は「司祭であるならばイエスに会ったことを確信しないといけない。」という。


「イエスに会ったことを確信する」ってそうそうできるもんじゃない気がする。私にはよく判らない。少なくとも会ったことがないとは言わないけど確信ももてないよ。
それになんか電波臭くないか?
・・・・・・いや、でも、師匠の言わんとすることはそういうこっちゃないよね。とにかく、司祭になったら確信しないといけないんだそうだ。で、それはどういうことなんだろう?と先日から考えていたりする。

彼の考えは聖職者とは奉仕するものであり、無私であるべきだという考えがあるようで、それを貫くには相当な精神力を必要とするのだろうけど。でも、神様を知っているなら、イエス様と出会っていると確信するなら、そういう誰も省みないような仕事が出来たりするんだろう。マザーテレサだって神様がいたからあのように生きていられたんだし、多くの同じようなマザーのごとき無名の人々がカトリック教会の内外で働いているのは、イエスを知っているからだったりするんだと思う。

エスに会ったことを確信しないといけないってそういうことなのかな?
うみゅう。よく分からない。わかる人がいたら教えて欲しい。

で、とにかく、教会というキリストの体ーイエスキリストを信じる人々の集まりーに於いて、その共同体が維持していくためには、必要な目立たない場所での雑用はすごく多い。そういう場所で働くことに徹している人は実はすごく多かったりする。名もなき司祭、名もなきシスター、名もなき信徒達。ただ教会の日常というルーチンワークをひたすらこなして次世代へ教会という共同体を受け継いでいく名もなき人達によってカトリック教会は2000年続いてきた。
馬鹿な奴等もいたと思うし、正直どうしようもない輩も沢山いた。けれどその影にはただ善意の無私の人々も沢山いた。
そういう総体がカトリックという教会であったりする。
「教会はきらい」などという人は人間という営みが嫌いなんだろうか。そこに生きようとした人々の全てが嫌いなんだろうか。


駄目人間も、全て引き受けて我々は教会の一部となる。
そう思う今日この頃であるよ。
自分を愛するように隣人を愛するってのは、駄目人間な自分同様、駄目人間な他者も愛することだったりするんだろうね。それが聖なることだと私は思ったりするのです。
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ところで師匠は、他人にはわかりづらいタイプだと思う。あまり評価されてないし。でも世界の人々が全て彼を批判しようと、敵に回ろうと、私は味方しますよ。と心に誓いましたです。でもそれは師匠には内緒だ。いうなよ。