インドネシア地震『人間の大地』プラムディア・アナンタ・トゥール

わたくしがぼやっとしている間にインドネシア地震があったらしい。

インドネシアジョグジャカルタ沖での地震発生 (2006/05/27)
http://www.anzen.mofa.go.jp/info/info4.asp?id=2
1.5月27日午前5時54分(日本時間午前7時54分)頃、インドネシアのジャ
 ワ島中部のジョグ・ジャカルタ市沖合でマグニチュード6.2の地震が発生
 しました。報道によれば、この地震による死者は2,500人を超え、負傷者
 も約3,000人に達した模様です。現地ではホテルなど多くの建物が倒壊し
 ており、被害は今後更に拡大する可能性があります。
▼ジャワ中部地震 患者の搬送続く…ジョクジャカルタをルポ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060529-00000000-maip-intジョクジャカルタ(ジャワ島中部)井田純】病院の受付前から廊下、中庭と、
病棟内のあらゆる所にあふれる負傷者。白い床の至る所に生乾きの血痕が見え
る。すぐ横では段ボールの上で年配の女性が点滴を受けている。余震が続く中
で、外のテントに横たわる負傷者たちは口々に「建物の中に入るのが怖い」と
繰り返した。
 インドネシア・ジャワ島中部を襲った大地震から一夜明けた28日、被害が
集中するジョクジャカルタ市街を回った。市内のベセスダ病院では、発生から
丸1日以上が経過した28日朝も、患者の搬送が続いていた。消毒用アルコー
ルと、人いきれの混じったにおいが病棟内に充満する。

一昨年のスマトラ津波に引き続き、ジョグジャカルタを襲った大地震インドネシアに受難が続いている。被害規模は死者5000人を越えるという。

ジョグジャカルタは首都ジャカルタを擁するジャワ島中部の街で郊外に世界最大の仏教遺跡ボロブドゥールがあり、またプランバナンにはヒンドゥーの遺跡がある。どちらもインドネシア固有の石の建築で、アンコールワットのような貴重な世界遺産である。
この都市を訪れたのは20代の終り。亡くなった友人と共にバリ島からバスに乗って17時間かけて行った。この時の旅の疲れが元で彼が死んだのかは判らないが、先天的な病を抱えて17時間のバス旅行というのも今考えたら無謀ではある。しかし20代の若気の至りで、やめたら?と言っても聞かなかった。んで、とにかく、バリ島のバスターミナルで現地人しか乗っていない窮屈なバスに乗り込み、缶詰めになりながら誇りっぽい街道を一路ジョグジャに。翌朝たどり着いた。
ジョグジャの街は古都と呼ぶにふさわしい落ち着いた街で、とりあえずホテルを探すのだが、ベチャだったかそんな名の人力車の運転手に頼んでホテルの建ち並ぶ地域に連れて行ってもらった。かつてのオランダ地主の建物をホテルに改造した屋敷についたが、ちゃんとした部屋が一つしか確保出来なかった(未婚の男女なんで一応な、二つ欲しいよな)のと、やる気のないホテル従業員と目が死んだような白人が中庭でだらだらとしている光景がどうにもいやで、次の日、他のホテルに移動した。
結局、数日滞在したホテルは華僑経営のホテルでハッピーホテルとか身もふたもない名前だった記憶が或る。しかし前のホテルよりずっと清潔でバスもあり(バスタブがあるがお湯は出ない)泊まり客は我々だけのようだったが静かで快適な宿だった。しかし夜中になるといきなり破れ鐘のようなスピーカーでアザーンが流れるとか、隣の住人が猫を見ると銃をぶっ放すとか、ちょいと困った環境でもあったが。
友人は身体の疲れが出て終い結局寝込んでしまった。ボロブドゥール行きは現地で知りあった学生が案内してくれた。実は英語が片言過ぎてお互い言葉が全然分らないので、どうなるか不安だったんだが、無事遺跡にたどり着いた。ジャングルの中にあるそれはやはりすごい威容であった。帰り道何故かその学生が家に寄れと誘うのでついていったが、いきなりの外人客に彼のお姉さんがぶちぎれて「ちょっと客があるなら先にいってよ!家が散らかってるでしょ」な内容らしき激しい喧嘩をしているようなので、「悪いけど帰る」といって別れた。済まなそうにしていた。名前も忘れてしまった彼は今どうしているんだろうか?
プランバナンにも行ったのだが、そこではインドネシア人の学者がいて「遺跡の修復の予算がないんで時間がかかって仕方がない」と溜息をついていた。夜、友人と屋台に行ったらやはり学者というか大学の先生が飲んでいて、「俺はドクトルで大学で教えているのに給料が安いからこうやって女房が屋台で稼いでなんとか生活していけるんだ。」などと愚痴垂れていた。公務員給料は安いらしく警察はズルと賄賂でなんとか生活しているようだし、なんとなく数週間という短い滞在でありながらインドネシアの不均衡な経済状況におおいなる疑問符を沢山つけて帰国することになった。こうした災害時に多くの混乱が生じるのは未だ秩序なき政治の所為でもあり、多民族国家ともいえるインドネシアの苦悩でもある。
インドネシアの歴史は数百年にもわたるオランダ植民地の歴史でもあり。彼ら民族が近代化するには多くの紆余曲折があった。インドネシアの混乱は他方でオランダ統治の結果でもあり、今日のアフリカで起きているさまざまな問題にも通じる。そうしたインドネシアの独立の物語をインドネシア人作家が大河小説として残している。

人間の大地 上 人間の大地 上 (プラムディヤ選集 2)

人間の大地 上 人間の大地 上 (プラムディヤ選集 2)

出版社/著者からの内容紹介
『人間の大地』は、1969年から10年間流刑地ブル島に勾留され、表現手段を奪われたプラムディヤが、同房の政治犯にそのストーリを日夜語って聞かせたという、途方もないスケールの4部策の第1部である。舞台は1898年から1918年にかけてのオランダ領東インドで、インドネシア民族が覚醒し、自己を確立していく長い闘いを描いた、これはいわばインドネシア近代史再構成の物語といえよう。
1980年、同書が発行されると、インドネシアの人々は熱狂してこれをたたえ、初版1万部が12日間で売れるという空前の評判を呼んだ。当時の副大統領アダム・マリクは、彼らの親や祖父たちがいかに植民地主義に敢然と立ち向かったかを理解するために、この『人間の大地』を読むよう若い世代に奨励すべきである、との推薦の辞をよせ、またある評者は、この本はこれまでに出たすべての歴史書の存在を無意味にしてしまうとまで激賞した。
余りの影響力に驚いたインドネシア政府は本書『人間の大地』第2部『すべての民族の子』第3部『足跡』を発禁処分とし、現在もその処分は解けていない。しかし、海外での評価は高まるばかりで、世界各国で翻訳発行されており、昨年1998年もノーベル賞候補に挙がっている。

主人公ミンケはインドネシアの王族の息子であり、オランダ人やオランダ人の混血児の通う学校で高等教育を受けている。しかしプリブム(現地人)というだけで彼は差別を受け権利を持たない。それは彼が恋に落ちる或る女性とその母であるオランダ人の現地人妻のニャイをとりまく問題でもあり、オランダ人妻であるニャイはろくでなしのオランダ人の亭主に代わって農園を経営するやり手の女性である。学のない彼女は独学で経営と近代啓蒙主義を学んだ驚くべき女性である。民族からも女性性であることからも自立した彼女はしかしまったくの権利を持たない。それは「現地人である」という被支配的、隷属的な立場であるからである。その為に起きる悲劇を中心に話は進んでゆく。
多くの理不尽な権利の奪われた状況でミンケはモノ書きをしながら東インドの民族の置かれた立場を学んでいく。おりしも日本が白人社会に自力で食い込み、西洋勢力を退けたという状況に瞠目する。白人=支配者という図式は嘘なのだと気づく。そして日本もまた中国に進出していく中で、またその中国が民族自立の防衛をしている光景の中で、或いは自立を求め立ち上がったフィリピンがスペインを打ち破り、しかしアメリカに頼ったために結局アメリカの支配を招いてしまう結果を見ながら、彼は問う。「では、我々はどうなのだ?」
誇り高い古い歴史を持つこの島々の、伝統的なメンタリティの欠点と、オランダの狡知を、ミンケは近代主義を学ぶことでまさに啓蒙されていく。


現代の第三世界の問題を考えるうえでも好著であると思う。
実はこの四部作のうち最期の二作は手に入れてない。出版されているのかどうか、アマゾンにも引っ掛かってこないんだが。


しかしインドネシア地震は心配だ、しかも件の亡くなった友人の弟がジョグジャにいるかもしれない。家族に電話しないと。たぶんお母さんが独りこちらに残されているので、不安の中にいるんじゃないか?と心配であるよ。

wiki情報・プラムディア氏略歴
プラムディヤ・アナンタ・トゥール(Pramoedya Ananta Toer, 1925年2月6日 - 2006年4月30日)はインドネシアの小説家である。
オランダ領東インド時代の中部ジャワのブロラの生まれで、学校教師の父親、敬虔なムスリムの母親のあいだに、9人兄弟の長男として生まれた。
日本軍政終結後、インドネシア独立戦争期の1947年7月、敵軍制圧下のジャカルタでオランダ軍によって逮捕され(容疑は反オランダ宣伝文書の所持)、1949年12月に釈放されるまで獄中にあった。
その後、次々と小説を発表するが、1965年の9月30日事件後、インドネシア共産党PKI)との関係を疑われたため、政治犯の烙印を押され、流刑の島・ブル島に送られた。文明社会から隔絶された流刑生活は10年以上に及んだが、創作意欲は衰えず、同国文学史上の最高傑作ともされる大河歴史小説「ブル島4部作 The Buru Quartet 」(『人間の大地』など)を完成させた。
スハルト政権下でプラムディアの作品は事実上の発禁処分をうけていたが、その業績はインドネシア国外でもよく知られ、1988年、国際ペンクラブ(PEN)のFreedom-to-Write賞、1995年、マグサイサイ賞を受賞、そして2000年、福岡市の「福岡アジア文化賞」で大賞を受賞。その受賞式典に来日し、記念講演を行なった。「アジアにおけるノーベル文学賞の最有力候補」(米誌Time)との呼び声も高かった。

先月、なくなられたんですね。