アカデミズム・大衆芸術

昨日から牛の涎のごとくだらだらだらだらだらと考えているこれ。トラバをいただいた。

Living, Loving, Thinking
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060430/1146374995#tb
■アート、教養、ポピュリズムとかとか
アート、それからその享受の前提となる教養、そしてポピュリズムというか、エリート主義/反エリート主義といった問題系について、ちょっとは原理的に考えてみないといけないなと思った。石原慎太郎の現代美術を巡る言いたい放題についてのLiberationの記事(の翻訳)*1、そして九谷さんのロックを巡るメモ*2を読んだのが直接のきっかけであるとはいえるのだが。
(中略)
ハイ・カルチャーや〈教養主義〉或いは〈エリート〉に対する左翼的な批判(これには例えばブルデューの言説なども含まれるわけだが)に距離を置くのは、それが〈庶民感情〉や〈国民感情〉に訴える右翼的な言説と共鳴してしまうことを危惧するからだ。というか、庶民とか大衆とか人民とかそういった類のものをsecurity baseとするような言説は気に食わないということなのだが。「俗情との結託」という大西巨人の言葉があったことを思い出した。そういえば、石原慎太郎竹内洋教養主義の没落』(中公新書)で、「教養主義」破壊のパイオニアとして描かれていなかったか。

konatyanの日記
http://d.hatena.ne.jp/konatyan/20060430
■アカデミズムと大衆文化
インターネットという伝達形態を持ってアカデミズム、言い換えればすべての領域において既存の権威が事実上崩壊してしまった。つまり、いかなる個人も自己の価値基準によって行動する限り権威は一定の傾向を共有した人間の集団内でしか効力を持たなくなっている。そのため、幸か不幸か近代市民社会の基礎理念ともなった17世紀、社会契約説を唱えたホッブスの言う万人の万人に対する闘争状態に現代社会は陥りかけている。17世紀当時、ホッブスを含めた思想家(ロック、ルソー)は自然状態を観念上のものとして扱っていたのですが、彼等の理想が21世紀を迎え実現されるどころかやっとスタートラインにつこうとしている、このことを踏まえたうえで昨今の問題を考えないと下手をすると17世紀以前のプレ・モダン、伝統権威主義的なものにまで戻りかねないとひそかに懸念を抱いていたりします。伝統主義者の批判する自己中心的な個人の弊害など300年近く前に問題にされている(しかも高校・へたしたら中学の教科書に書いてある)、私は近代や民主主義の欠点と言われるものにむやみやたらと伝統を振りかざし、それで問題が解決するなどと言う短絡的な発想には付き合いきれない。つまり、私どもが今からしなければならないことは伝統文化、プレ・モダンの復興でも、ポスト・モダンの模索でもなく、モダンつまり近代をもう一度一から考え直すことではないでしょうか。

先ず、石原慎太郎の放言事件について取り上げる。
sumita-mさんが示した石原の芸術放言はこれ↓

東京都知事、現代美術を腹にすえかね
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mcpmt/Liberation20060424.html
ここぞとばかりに彼が述べるところによれば、「見る者に説明を要する現代美術というのは無に等しい。」そして、最後のとどめのように、「日本の文化は西洋文化よりもよほど美しい。」会場内には衝撃が走った。

石原の芸術への無理解はヒトラーのそれに通じるというか、薄ら寒くなる。
しかし確かに同時に「説明を要する美術とはナンだ?」という疑問を突きつけられるというのは、単なる大衆側からの教養主義の否定だけでは済まないなにかはある気はする。というのも(特にアメリカなんかでそうなんだけど)アートの教育の現場における「コンセプト」重視という傾向、現代美術の現場でも同様に、理屈が先に立つことへの反省ということをわりと聞くからなのだが。もっとも石原氏の放言はそういう筋ではなく、ヒトラーが抱いていたモダニズムへの無理解とコンプレックスに近いものを感じるので、まぁ、薄ら寒い。リベラシオンは指摘していないが念頭にその光景はあっただろう。もっともリベラシオンも「カルチエ財団が20年前から収集にいそしんできた芸術作品のすべてが、空路、海路、気の遠くなるような取り扱い注意の気配りとともに、今回、ようやく東京に結集させられたのだったが・・・・・・。」などと情けないことをほざいているので、萎え。気配りがナンであろうと批判されるものは批判されるわけで。それがアホ批判だったとしても一つの批判である。「こんなにしてやってるのに批判するとは何事だ」という時点で既に理知的ではないわな。
ただし以下のような見方もある
http://rblog-biz.japan.cnet.com/takahito/2006/04/post_ee13.html
リベラシオンが石原氏発言に公平な書き方をしていない可能性はあるかもしれない。
・・というのも、上記URLに示された画廊経営者達の報告書に・・・

 石原慎太郎東京都知事は、美術に理解があり、NICAFでは役人原稿でなく自らの言葉でスピーチをした人物で、東京から発信するものがないとだめだとこれまでにない方法で活性化を計ろうとしている。

・・・という発言があり、石原都知事が日本の美術界の西洋偏重にいらだっているということが背景にあるようだ。更に意地悪な視点でいえば、リベラシオンは左翼的立場ゆえに、敢て石原をヒトラーと被らせるような描き方をして見せたのかもしれないが・・・・まぁ、現場にいないのでその辺りのニュアンスは不明である。
但し、いずれにせよカルティエ財団はえらいとばっちりである。

●追記
現場にいた方の感想を発掘
○紺洲堂の文化的生活
http://plaza.rakuten.co.jp/conshudo/diary/200604290000/
石原都知事を全面擁護するわけではないのですが。
→これを読む限りリベラシオンの書き方は確かに公平ではないな。
上記で書いたヒトラーとの相似という感想はやはり保留にすべきか
・・・・・・サヨクの政治プロパカンダに使われたか?隙の多い親父だ。笑)
フィガロに到っては、発言の芸術的妥当性より政治立場の問題の方が優先されてるようだし
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mcpmt/Figaro20060421.html
これ全訳ですかね?

また。他方で石原都知事東京都現代美術館に対する冷遇(予算がつかない)も聞くので、日本の美術の推進はしても現代美術は冷遇するという態度はあるかもしれない。以下参照のこと。
○Rogi073.Diary
http://d.hatena.ne.jp/dzd12061/20060430
→ここでも、「わかる」「わからない」といった芸術ということが取り上げられている。

●上記に更に追記
石原発言でこんな批判をくらったよ。
○J0hn D0e の日誌
http://d.hatena.ne.jp/j0hn/
■[art] 石原都知事の発言を批判している人は1500円払って展覧会を見ているのだろうか?
ええと、この人は人のブログを最後まで読んでないな。一番上の記述だけに反応しているのには困ったものだ。
リベラシオンがいかに不公平かはその後の記述に書いておるんじゃがね。
もっとも私の方も都現代美術館には行きたいんだが、行くには1500円以上かかるというか
、往復で7万円ぐらい飛ぶんでそうやすやすとは行けないっす。泣)

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さてトラバ下さったお二人も書かれているようにアカデミズム(教養。学究)と大衆といった二つの立ち位置、その対立構造、もしくは交感する現象、それらについて昨日も村上隆をネタにつらつら書いてきたわけだが。他方で大衆の教養への侮蔑があり、他方でアカデミズムからの大衆への侮蔑がある。こうした光景というのは対立構造を採りながらも交感してきたという歴史は長かったりする。
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このところのアカデミズムの問題等に関して、j_m_w_tさんから新しい視野をいただいたんでそちらも紹介しておきます。
○売文日誌
http://d.hatena.ne.jp/j_m_w_t/20060501/1146471706
■芸術は所有の対象にならない事
それとこちらもなかなか考えさせられる一言。
http://d.hatena.ne.jp/j_m_w_t/20060501/1146475101
■芸術とは何ものでもなく

→現象ということ。成程、同意。
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皆様から色々示唆をいただいたので、ちょっと仕事しながらまたまた考えてみようかと思います。