アカデミズムの限界

ずっと以前にこんなことを書いた。
■大衆文化
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20050127/1106766073
この時は固有名詞を出さなかったんだけど、あきらかに村上隆の作品を意識して、オタク文化がアカデミズムに組み込まれるとつまらなくなるだろうということをつらつら書いていたんだな。
実際、村上隆の作品(変なアニメフィギュアな作品ね)に対峙した時、「つまらない・・・」と思ったのが正直なところだった。似たような馬鹿アートというとジェフ・クーンツとかイタリアのルイジ・オンターニとか、ジャック&ジル(って名前だったっけ?ホモホモな二人)なんかがいるんだが、彼らに対してはあまりそう思った事がない。村上のが何故つまらないと思ったのかというと、元ネタのフィギア世界を知っているからなんだろうな。あれはアレ自体ではかなり醜悪(造形としてはかなり安いうえに巨乳とかパンチラとか・・・)で、しかしそれに或る種の価値を持たせているのはオタク達の萌えパワーである。それらはフィギアだけで完結するのではなく、萌えた人々の語りやら、同人やら、ネットでのパロディやら、そういうのの一部としてあるからこそ、昇華されるといったものだろうと。その大衆芸術のあり方としては上記のエントリにも書いたが、かつてキリスト教美術において存在した大衆信仰のあり方にも通じる。
それらの教会美術が信仰の場ではなく美術館に持ってこられた時、何故か輝きは半減する。たしかに優れた作品は鑑賞に値するものではあるが、それでも教会にあって多くの巡礼達が祈りを捧げている聖像のその稚拙な作品でありながらにして聖である、そういう働きの「場」を与えられた存在とはやはり何かが違ってくる。美術館において役割をはく奪されそこにあるというのは、一種の死骸みたいなもんだ。だから稚拙な作品はオーラをはぎ取られ、醜悪な作品は観るに堪えられなくなる。あきらかに作品それ自体の完成度において観賞されるものとなる。土産物屋に置かれたマリア像とミケランジェロのそれとは教会の聖堂内においては平等の働きをするが、美術館においてはあきらかに差が生じる。
実のところ、そういうことを気付かせてくれたという逆説的な点で村上隆の作品には意義はあるかもしれない。私の中でアカデミズムと大衆芸術というもののそれぞれのあり方が浮き彫りになった。
○煩悩是道場
http://d.hatena.ne.jp/ululun/20060429/misc0604295
■[考え]村上隆の功罪
→上記の私の戸惑いをうまくまとめてくれている。
サブカルチャーハイカルチャー、アートとは本当にハイカルチャーのものなんだろうか?
それは以前からかねて疑問に思っていたことであり、それは過去の西洋美術のあり方として、キリスト教美術として存在したそれが、やがてアカデミーのものとして自立し、権威を築くに到ったその系譜と、現代美術がその権威を破壊しながら逆に権威にとって代わってしまった挙げ句、大衆からもっとも遠いところに行ってしまったかのように見えるその現象。そして本来はその遠ざかった位置から再び大衆への回帰としての「村上隆」であったのではなかったか?
その辺り「アカデミズム」ということから少し考えてみたいかと思う。
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私はそもそもデザイン科出身なもんで、所謂、日本の画壇というものは縁がない。そして商業美術、つまりデザインってのもアートに昇華されるものだと思っていたりする。バウハウスをひも解くまでもなく。そういえば未来派ってのも大衆芸術の発見の運動だったなぁ。
・・・・なもんでイラストの仕事などもタブロー作品としては同列で考えていたりするんだけど旧弊なアカデミズム、つまり「芸術」と言語イメージの或る世界ではイラストレーションは低俗なモノと見做されるらしい。以前、絵画の師にそんな風に批判されたのだが、聞く耳持たずにずっと続けていたら、最終的に認めてくださった。世間の流れもそういう方向へと向っていたからなんだろう。
しかし現代美術シーンは何故かそういうものは一応、論理化しないと市民権がないみたいだ。美術手帖などにこむずな評論家がなにがしか書いてはじめて認められる。しかしキリスト教神学でもそうだけど、一応だらだらっと有るものは整理して体系化して、それで位置がはっきりするみたいに必要な作業ではあるのだろう。しかし、なんとなくそちら側のウエイトが強すぎて言葉で語らないと「アート」じゃないみたいな、コムズな言語があってはじめて成り立つみたいな本末転倒な現象が多く見られるような気はしていた。アカデミズムが本来のアートの魂を奪っているかのようなそんなイメージはあった。
キリスト教世界でも「信仰と理性」のバランスはよく問われる。どちらに傾き過ぎてもよくない。信仰が行き過ぎればただの客観性のない電波、迷惑な宗教馬鹿だし、理性が過ぎれば神すらも下手すると忘れてしまう。神秘というもの自体が認められなくなり、宗教ではなく純粋哲学にいくだろう。だからそれぞれの個性によってどちらかに多少は傾きつつもそれなりに中庸を求められたりするわけで。芸術にも似たような性質はある。やはり直感的なセンスというか、言語化されない視覚的なモノで勝負するとはいえ、どこかでそれを理性によって認識していなければただの「趣味」の領域から出ることはない。芸術に昇華しているものはどこかで理性的な位置づけが為されている。
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ご飯食べに行って、頭を整理した。
ええっと、アカデミズムという権威の話だったね。
そういえば「文化系女子」のエントリで、こんな批判をもらっていた。
○daydreambeliever
http://d.hatena.ne.jp/cachamai/20060428/p3
■[黒梔][memo] [文化系女子
ユリイカは読んでから批判してよ、アンアンかなんて・・・文化系女子にはそんな価値しかないのね。(要約)
まぁ、確かに読んでない。なんせ島にゃぁユリイカなどおいてある本屋などない。そもそも「文化系女子」ってのがなにかよく判らんかったのでピンと来ておらんかった。だからユリイカの特集がどうこう以前にその言語のなんたるかを知ることからはじまったわけだが。。
しかしである。ブンガク雑誌「ダ・ヴィンチ」とは違うスタンスだと思う「ユリイカ」がその謎のカテゴリな言語をどういう切り口でやってるのか興味はあったんでアマゾンの本紹介を見た。そしてその見出しの羅列に「なんじゃこりゃ????」と驚いたのは事実である。文化系おばはんにはちょいとドン引きする。第一「カタログ」とか・・・・そりゃマガジンハウスの常套文句じゃろ?80年代の「カタログ文化」というイメージが先行してしまうですよ。
で、そういう切り口でしか語れない社会現象ならば「そんな価値しかない」ことになる。しかしコムズが好きで斜に構えた文化系女子に読んでもらいたい内容だというならこの見だしの羅列は失敗だと思うが、萌えな男子は買うかもしれない。そもそもがネットで産まれたサブカル言語であるらしいしね。その現象をアカデミズムに語るのだし文化系女子にも読んで欲しいというなら、まぁ工夫しろよな。しかし萌え要素を扱うというそのコンセプトが、アンアン的な造りを選び、敢てやっているというならそれはそれ。実際、都会にでも行った時に一応中身確かめて面白ければ買うつもりでもあったんだが。上記の不満の記述で申し訳ないがその気が萎えてしまった。
で、ここにもアカデミズムと大衆文化との対立と交流の構造があるということだな。
文化系女子」というのはアカデミズムに萌えている女子を殿方が萌えるという実は大衆現象なんだな。
ユリイカはまぁ一応アカデミックな雑誌だ。それが大衆文化を扱う。大衆文化を批評する。現象を理論化することで位置づけていく作業を行おうとしているわけだが、それを大衆的な手法で語ろうとするというのは一種の村上隆的な現象ではあるな。
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上記二つの現象。もともとアカデミズムの場にあった存在が、大衆文化的な手法で大衆文化を語る。これらはまぁモダニズムの時代以降の伝統性といっていいだろうけど。何故、村上隆の現象が違和を感じさせるのか?それはアカデミズムを上位に起き、大衆芸術を下位に置く、その一種の権威主義的な心理においてだろう。単なる棲み分けにすぎないそれに一種のヒエラルキアがあると見ているのかもしれない。
実際、芸術というのは或る種の排他性というか、他への優位をその自らの内面世界に於いて構築はするが、他方、社会での位置づけというのは単に立ち位置が違うに過ぎない。どちらが上位でどちらが下部を構成するかということではない。その点であきらかに村上隆は大衆芸術を下位に見做していたと今回の件で判ったとはいえる。大衆芸術を「上位に持ちあげて」いるかのように見えながら実は違うのだという矛盾において、戸惑いを感じた人は多かったと思う。
或いは「文化系女子」にカテゴライズされるだろう文化系女子文学少女達の「文化系女子」カテゴリへの一種の反発もアカデミズム的世界と大衆文化的世界とのある種の分断ではある。「アンアン的なモノ」とされることの拒絶もその文脈か?
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現在、あいもかわらず平野啓一郎の「葬送」を読んでいるが、ドラクロワの立ち位置が面白い。アカデミーからは権威への批判者として締め出され、改革派は彼を持ちあげているのだが、彼自身はアカデミーの破壊者である革命家達と距離をおこうとしている。あくまでもアカデミーの文脈であるのだと。まぁそういう立ち位置を保持しようとしているわけだ。モノすごくアンビバレントな位置づけである。平野氏が三島由紀夫に傾倒しているという辺りの文脈で、この平野啓一郎のおそらく分身というか代弁者でもあるドラクロワの内面記述はかなり興味深い。

(続く・・・・と思われ)