音楽と美術の死

あいかわらずだらだらと平野啓一郎の『葬送』を読んでいる。一気読みすりゃとっくに終わってるんだろうけど、仕事があるために、ご飯の時にしか読んでないので時間がかかる。
現在、ショパンが病床で死に脅える光景のとこ。
音楽という芸術は時間の芸術であり、まぁ瞬間芸である。同時代どころか同時間性を必要とする。そして演奏家自身が生きていればその音を聞くことが出来るが、彼が死ねばその芸術は死ぬ。音楽家自身そのものが重要だったりする。確かに譜面が残ればそれは再現が可能であるが、しかしそれは譜面解釈をするものの音に過ぎない。完全な再現などあり得ない。最近は音のコピーが可能で、コピーされたもの自体が最終作品となるものがある為に一概にはいえないが、それとても再生装置の優劣で音楽家が伝えたかった本当の音を我々が聞いているかどうかは疑わしい。
美術というジャンルの死は、作品そのものの消失である。作家本人が死んでも作品は残る。しかしその作品が破壊され消失すれば、すべては無になる。再現は不可能といってもいい。複写されたものは別の存在である。こちらもコピーされることが目的となった版画や印刷媒体を通じたアートが存在するので一概にはいえないが。
生の演奏が目的となった音楽も、絵の存在そのものが目的である絵画も、その死の様相は違えど、今日は既に死に瀕しつつあるかもしれない。
平野氏の物語に於いて、ショパンを支える多くのパトロンがいるが、革命と共に困窮し多くの音楽家は亡命する。革命によって殺されようとしている一人の音楽家がここにいる。ドラクロワの絵画が革命の暴徒達によって焼かれたように、一つの作品が緩慢に埋葬されていく様は痛々しい。
他方コピーされる芸術は大衆の芸術である。現代という時代においてはそれが自然な形なんだろうとは思うものの、これらには「流通」という問題もからむので、「美」が悪貨によって駆逐されやすい状況はあるとはいえる。
結局「美」というものの存在に「平等」などありえない。
美をやるものが政治家になるとロクなことはないのはその性だったりね。
「美」もまた語り得ぬものとしての性質を持ち、完全に言語化>論理化出来得ない要素を持つのだろうよ。

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しかしショパン君が死の床で脅え語る言葉は身につまされるというか。

「また一つ革命が起ころうとも、ポーランドが独立しようとも、僕はそれらと何の連絡も取れぬ場所で、いや、場所ですらない場所で死に続ける。果てしもなく、永遠に」(『葬送』第2部 下 p170)

平野氏は誰かの死に立ち合ったことがあるんだろうか?
そういえば友人が死んだ後、ポーランドが自立し、ソ連が解体し、阪神大震災が起き、オウムの事件があり、911があった。彼はそれらを知らない。死に続けているだけだった。