鬱という病

先日、川崎のチキン野郎絡みで、社会の閉塞的な空気とか鬱の方が周りに多い話から「饒舌な鬱」の話をかいたら、ある方から某所で「それは鬱の典型的な症状の一つだ」と、ご指摘を戴いた。
つまり鬱も重度になるとほんとになにもしなくなるんであるが、ある程度浮上してくると積極的になることは知られている。その段階においても激しく鬱であることには変わりはないのだが、自分自身の苦しさをとにかく他人に聞いてもらいたくて異常なほど饒舌になるのだという。こういう時は他人の都合など省みずとにかく話したい。自分はこんなに苦しいのだ。或いは自分はこんなに苦しめられているのだ。とひたすら語り続ける。正直、自分語りの具合がただのナルシ君にしか見えないし、「そのエネルギーをもっと建設的なことに向ければいいのに。」などと健常者は思うが、それは風邪を引いてる奴に「咳をするな」というようなもので、症状としてそういうことなのであるから仕方がない。
つまり、自己防衛手段としての饒舌である。
ご指摘下さった方自身が鬱の経験者でありそこから治った方だったのでその辺りのメンタルな動きをよく知っておられる。
そもそも「躁・鬱」と「鬱」もまた違うのだが、私がはじめてこの病気を知ったのは小学校の時、北杜夫の書に出会ったからである。小学生にとって激しく画数が多いこの文字列が、北杜夫をして引き篭もりの生活を送らせ、操の時の破壊的な状況と比較しても、ただひたすら3年間ほどなにもせず布団の中で漫画を読み続けていたなどというメリハリあり過ぎの生活に「すごい病気が在ったものだ」と感心した記憶がある。彼の『幽霊』や『楡家の人びと』などにみられるような繊細な空気はそういうメランコリアな気質から来るんだろうと思い、中学の時も相変わらず北のファンであった私は「操・鬱」に憧れたものであった。青かったな。その後「鬱」とは誰にでも起きる風邪のようなものであり、正しい医者の指導のもと治療を受ければ治るものだと知って、身近な病気であると認識すると共に、憧れは無くなった。
私自身メンタルな仕事をしているので、気分の浮き沈みは激しい。ただ、この苦悩の内面を人に話して解決するもんじゃないと思うのと。自分語りは作品でするべきものであるという職業的理由から、滅多に窮状を人に話す事がなかったので、ネットをはじめてから多くの人がとにかく鬱であることの窮状を訴えている光景に出くわすことになり、驚いた。なによりも「話すと、なおさら、そこに書かれた内容が結局は自分自身にフィードバックされて落ち込む」というのが経験上あったので、無防備に自己の窮状を訴える人々が多いのに驚いたのだが、同時にそれこそが「病」である事の光景なのだと。つまり私のは単に落ち込みが深い「鬱症状」に過ぎないが・「鬱病」とは何かがやはり違うのかも知れないなぁ。とは思いました。
ただ、気になるのはあまりにも逆にこの病であることを口にする人が多いことや、無防備にとにかく言葉を発し続けていることの危険さとか、そういう事が気になる。言葉は発した側からおのれ自身を傷つける作用がある。その言葉の持つある種の暴力性を自覚せずに行っている時、結局、落ち込むのは本人になる。それらはすごく不安定な状況を作り出してしまう。
例えばわたくしは、鬱の方からメールをもらったりもすることもあるが、読んではいるが、なるべく内容には反応しないようにしている。変に同調すると、相手の中でよりなんらかの気持が加速してしまう気がするのであるからなのだが。面と向わない文字だけの対話をかさねると言葉の持つある種の暴力が積み重なって、最終的に本人を傷つけてしまう気がする。ただ、それらの訴えは読んではいるし、なんとか浮上して欲しいとは祈ってはいるのだが。だからそういう内容に反応しないからといって、切り離しているのではなく、加速していくなにかにはいたずらに反応してしまう方が無責任であると思うからなのであるが。
しかし、それらが治癒のために必要な事なのであるとは思うし、まぁいつでもメールしてみてください。読んでいますし、祈ってはおります。