日の丸君が代症候群

世の中、卒業式の季節になりました。あちこちで様々なお祝いや送別会があるこの季節に毎年恒例のネタが飛び交ってるみたいです。トリカゴさんとこや、木走さんの処でもこれらのことが取り上げられておりました。

▼教員むしばむ『君が代神経症
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060323/mng_____tokuho__000.shtml
公立学校の教員で病気休職、とりわけ極度のストレス障害など精神疾患が増えている。背景として卒業・入学式の「日の丸・君が代」強制が見過ごせない。東京都をはじめ、君が代斉唱を強制する教育行政が、教員らの精神をむしばんでいる側面もある。精神科医の野田正彰・関西学院大学教授が、教員らから聞き取り調査した分析結果から見える実態とは−。 (松井 学)

クリスチャンとして、「君主」を讃(たた)える歌を歌うことができないと考える男性教員の場合は、不起立したことで減給、異動といった不利益や、「再発防止研修」を受ける立場になった。自分の将来について、次の卒業式まで何とか持つのだろうかという不安感を持つ。一番の心配は、自分で自分の命を絶つのではないかとの思いで、「首をつっているイメージが浮かんでくる」という。
音楽教員の女性は、「10・23通達」以降は「歩いていても『君が代』が聞こえてくる」ようになった。卒業式でピアノ伴奏をする音楽教員は、特に生徒に斉唱強制を促しかねない“加害者”の立場にもなりうる。

 女性教員は、音楽準備室に入り込んでくる虫(カメムシ)が「都教委に見え、見張りに来たと感じる」ような思いに襲われる。

 すでに精神疾患によって病気休職を取った男性教員の場合は、自らの教育の集大成と考えてきた卒業生の「答辞」が廃止されたことが最大のきっかけで、落ち込み、睡眠も取れなくなった。この学校で答辞が廃止されたのは、〇三年度の卒業式で、代表の在日朝鮮人生徒と日本人生徒が「日の丸・君が代の強制には納得できない」と答辞で述べたことが原因とされた。

 別のクリスチャンの女性教員は、職を失うか、従順に従うかとの葛藤(かっとう)がある。「以前、『君が代神経症』という言葉を聞いた時は、少し大げさではないか、自分はそのような状態になるほど純粋ではないからと聞き流していた。しかし、今はそれが身近なことに感じている」

東京新聞が嬉々として記事にしていますが。ついに病気を盾にとっての反対主張という図式というのはどうなんでしょう?カメムシが別のものに見えるとか、う〜ん。心配ですね。
しかし自分の主張が通らないとビョーキになってしまうってのはどうなんでしょう?世の中不条理で自分の思う通りにならないことは沢山あります。ビョーキになってしまうことそれ自体は気の毒であるけれど、しかしなんというかそれをなにかの主張に使うっていうのは、病人も鞭打って思想プロパカンダに用いるという。なりふり構わぬ手法ですね。そもそも「自分にとってこれこれこういう嫌なことがあるから首つりしたくなる」などと他者に言うのは一種の脅しです。病人だから労らねばならないという、相手に甘えた手法を用いるのはどうよ?
危機に陥っている方に対しては病気治療が重要なのであって、イデオロギーの道具に使うようなのはもうどうかしておりますね。

しかしまぁ「クリスチャン」ねぇ・・・・。
うちの中学高校(カトリック校)は日の丸君が代きちんとやっておりました。というかそれが当り前でしたね。小学校の時は公立で左巻き教師がおりましたが、その頃の左巻きの人々はまだ日の丸君が代をターゲッツにしていなかったですね。ただカトリック校に行って左巻き教師がいないことでほっとしました。子供心に何かおかしい先生というイメージがあったので。とにかく、このニュースでの印象、「クリスチャンは日の丸君が代反対の代表者」みたいなのはなにか嫌ですね。

そもそも以前にも書きましたが、「日の丸・君が代がかつての軍国主義をイメージする」「侵略のみ旗だった」という批判から以下の対比が成り立ちます。

日の丸→十字架
帝国軍→十字軍
君が代の「君」→イエス・キリスト
植民地での暴力等→エルサレムにおけるイスラム教徒への暴力等

日の丸君が代に反対するクリスチャンは、「十字架使用禁止!」「イエス・キリスト禁止!」「イエス・キリストの名の元にイスラムの土地に侵略したのはどこのどいつだ?」と批判されてもしゃーないでしょうね。
この手の原理主義。例えば他にも、仏教式の葬式に出ないとか、焼香はしないとか、神社仏閣に行かないとかいうキリスト教の一部の教派(ファンダメンタルなプロテスタントの一部の派)がありますが、日の丸等に対するエキセントリックな否定の仕方はそれに通じる原理主義的なものを感じてしまいます。
そういえば話は変わりますが、某新興の仏教団体もかなり原理主義的で、以前はキリスト教をとにかく目の敵にしておりました。(しかもカトリック信徒などは特に攻撃のターゲットになっていてよく困惑したものです。)まだ洗礼を受けていない、寧ろキリスト教なるものに距離を老いていた頃、大学の友人でその団体会員に何故かクリスチャンと勘違いされ罵倒されたことがありますが、「ええと、私はクリスチャンじゃないんだけんど」といったらバツが悪そうにしておりましたね。何故ここまで他の宗教を罵倒しなきゃならんのか不思議でしたが、その後もそうしたキリスト教批判を聞くと大抵が内容が一律なので「うへぇ、こりゃまた変な洗脳受けてるんじゃねーの?」などと思ったものです。或るシスターは「シスターを折伏すれば教団での地位が上がるのよ。」などといわれあからさまに勧誘を受けたと言っておりました。かつては「カトリック信者を宣教対象にし、折伏する」というのが一つの目的にあったそうです。しかし、最近はそのようなことは無くなったとのことで安心しました。結局、攻撃に出るという時は大抵内部での問題を抱えている時なので、今は教団内部が安定したということなのでしょうね。

閑話休題。日の丸君が代
まぁ、「植民地支配」が愚策な事はいうまでもなく、いくらインフラを整備しようが、ロシアが攻めてくるかもしれない脅威があろうが、植民地化するというのは後の世に民族間の禍根を残す結果となることは、現代の様々な宗主国との確執やトラブルをみても判ろうというもの。リスクが大きい手段ですね。ですからそういう本質的な問題を考えたり教えたりするのは大切でしょうが、単なる「日本」という文字列を記号化した「日の丸」を問題とするのは、元の問題と違う新たな問題を生み出してしまう愚策な発想でしょうね。

正直、国家が、都の機関がそのようなものを法的に強制するというのもおかしな図式です。しかしそもそも、それが何故引き起こされるに到ったのかというと、公立校のイデオロギー教育への危機感からでしょう。現在はどちらの立場にしてもイデオロギーの押し付けがあり、生徒はそれらの板挟みにあってただただ困惑してしまうだけです。

国歌も日の丸も歌ったり、揚げたりすればいい。で、それが嫌な生徒はそれを歌わない、無視する自由がある。それで生徒を罰したりとやかくは言わない。というのでいいのではないでしょうか?教育機関は教育者のイデオロギーの発露の場ではないわけですし。
お隣の国などは国旗に対する自負が強く、バカでかい太極旗がワールドカップの時に登場したりと異常で、あそこまで愛国精神をあからさまにパフォーマンスされると、流石にどん引きしてしまいますが、それでもまぁ、自分の故郷となる国をこの人たちは大変に愛しているのだなぁなどと思って見ておりました。