祈りの空間

正教会では助祭は補祭といいます>ユリアヌス先生。
正教の典礼は荘厳ですこぶるよい。・・・・が、長い。
しかし、人々は典礼進行中も勝手にイコンやらに蝋燭あげて祈っていたり、出たり入ったりしている。聖域と俗界が完全に別れている感じがよい。きっと第二バチカン公会議前のカトリックもこんなんだったんだろうなぁ。なにやらマイペースな感じがしていいななどと思う。突っ立ったままってのが疲れるけど。
正教会のはカリスがでかい。聖変化のときはお隠れあそばす。

ロシアのクレムリン宮殿内には幾つか正教会の教会が建っている。アンドレイ・ルブリョフが描いたといわれるフレスコ画があったりする。そのうちの一つは聖堂内にびっしりと天使や聖人が描かれ、西方教会とは違う、法則性がいまいちよく判らない状態で描かれているので、これまた面白い。
正教会の場合これらのイコンは「祈りの窓」アイコンであり、それ自体が礼拝対象ではないが、それに対する思い入れは西方以上であったりする。長い共産党支配の時、これらの教会の多くは破壊されイコンは持ち去られ美術館に納められたのだが、ソ連崩壊と共に正教会が復活した後、これらの教会がどうなったのか知りたいものだ。
しかし聖なる空間というのは、時たま必要になる。聖域というのは人間にとって、或る種の生きる糧として重要なんではないか?などと思う時がある。たまにそういうトコで祈らないとなにかが枯渇していく気がするです。うちの島には教会がないのでそういう祈りの空間は神社しかない。なもんでそこに行くしかないわけだが、どうもうちの島の神社はあっけらかんとしていて少々もの足りない。寧ろかつて風葬が行われていたといわれる墓場あとのほうが聖域っぽいなぁ。ただお墓なので代々そこを守ってきた人の私的空間でもあるので、祈るのはなんか違う気もする。