土星の画家

相変わらず芸術脳を鍛えんと懐かしの人々を思い起こしている最中であるよ。
竹下さんに「ミケランジェロって鬱で天才」とご指摘されて、緩慢な鬱状態に在る私と致しましては、そうかミケちゃんてば鬱かぁ。と、あらためて本棚から彼の書簡集を出してきて読んでいたんですが・・・・
・・・・・・・・うっとおしい。
ミケランジェロの書簡は概ねどれも、パトロンに仕事の進展のいいわけと、ユリウス二世の仕事が進まない理由と、材料がうまく入手出来ない愚痴と、家族に家長としてのえらそーなアドバイス以外ないといっても過言ではない。もうそういう内容のが延々だらだらとあり、かろうじてコロンナ夫人と交わした書簡が彼のメンタルの繊細な部分を知る手がかりになるという按配。
どうもかなり実用的で禁欲的な人生を歩んだ人のようだ。
仕事関連書簡では、とにかく仕事を抱えすぎて一杯一杯で、それによって押しつぶされそうな気持が伝わってくるので作家としては息が詰まる。こんな仕事ばかりのことで悩んでいて、しかもそれが作品内容ではなくつまらない実務的なことで頭を悩ませているようで、ものを作る人間としても不健全な環境におかれている感じが伝わってくる。首をぎゅうぎゅうと自分で締めている感じがするんでうんざりした。常になにかに追われている印象。締切を幾つかかかえ、やらなきゃいけないことであると判っていながら、なかなか出来ない、作品に向う気力が起きない時のあの閉塞感。それがフィードバックされてきてうんざりしてしまった。
唯一の例外であるコロンナ婦人とのやり取りは彼が生涯の中で唯一といっていい恋愛の事例だそうだが、とにかく微笑ましい。彼は婦人にプラトニックではあるが情熱の愛をささげている。そのささげ方はとても情緒的でなおかつ歯痒いほどの繊細さである。お前は女学生か?といいたくなるような按配だ。バランス感覚がすごく悪いおっさんみたいだ。
しかしその書簡で思い出すのはアベラールとエロイーズの書簡であり、あるいは聖クララと聖フランシスコの交流の光景であったりもする。アベラールとエロイーズと、ミケランジェロとコロンナ夫人とでは立場は逆転する。エロイーズがその情熱を抑えきれず思いを書きつけていくそれをアベラールはたしなめる。コロンナ夫人はミケランジェロの情熱を仕事へと向わせようとたしなめたりしている。ミケちゃんにとってコロンナ夫人マイブーム状態なわけで顔から火が出るようなソネットなんぞも書きつけて贈ったりしていて、これが60代の男のやることかいな?と笑ってしまうわけだが、とにかくプラトニックだからこそ萌えちゃったりしてしまうようであるね。他の書簡に色気があまりないぶん余計にこのリリカルな心情との対比が面白い。
コロンナ夫人はミケランジェロよりも早くに亡くなる。その喪失の悲しみが覆い尽くしている時の詩は痛々しい。
死に対してすら絶望している。

あの太陽がすべての道を燃やしていた間に、
地からわたしを引き離してくれたなら、どんなにか幸福だったのに。
その時にはまだ、彼女の翼でたすけられて馳せ飛び、
楽しく死んで行けたのだ。

今はもう太陽は去ってしまった。もしかわたしが、
あの楽しい日がそんなに早くは去らないと自惚れていたのなら、
その有り難さ知らずの欲目な心に、時もなくなり、
天の扉も閉められたとて無理はない。

あれの翼がわたしをたすけ、登る階も与えてくれ、
太陽が歩みを照らしていてくれたときには、
死ぬのも、嬉しい救いであったのだが、

今死んだとて、助けもなく、心は天に登れもしない。
そのおもいでも胸に残りはしないのだ。
こんなに遅れて、痛みの後に、誰が助けてくれるのだろう
(『ミケランジェロ伝』 アスカニオ・コンディヴィ著、高田博厚訳 岩崎美術社)

正直、上等の詩かどうかってのは、この際置いておいて、とにかく悲嘆度がわかろうというもの。

ところで竹下さんのサイトをずっと読んでいて、面白いと思ったのは「鬱」と芸術家たちの話。怠惰と鬱が親和性が或るとか、あるいは以下のような記述。

哲学・宗教質問箱 竹下さんの回答
http://6318.teacup.com/philosophie/bbs
最近、エルサレムから数キロのアブー・ゴシュの修道会の院長が変わりました。この修道会は、12世紀にマルト騎士団が建てた教会にあって、現在10人の修道士が住み、今年創立30年を祝います。30年前に、ノルマンディのベネディクト修道会の院長が、世界の分裂の元は、初期キリスト教ユダヤ人の分裂のせいだと言って、ユダヤイスラム分け隔てなく門戸を開き地域社会に尽くそうと、この地に4人の修道士を派遣したのです。今回新院長になったのは、最初の4人の生き残り2人農地の一人、シャルル・ガリシェ師です。
 何で、急にこんなことを書いているかといいますと、このガリシェ師の略歴が紹介されてるのを見てちょっとびっくりしたからです。「1976年、アブー・ゴシュ着任」の後、「1993年、鬱病」とあるのです。その後は、「1996年、パリ、サンタンヌ病院精神科看護師」「1999年、サンテ刑務所付き司祭」「2004年、イスラエルへ帰還」「2005年、アブー・ゴシュ修道院の院長に選ばれる」です。
 聖職者(しかも修道院長)の略歴に、鬱病なんて病名を書くなんて・・・でもわざわざ書くということは、それが彼のキャリアにとって大きい意味を持ち、最終的にはポジティヴだったからだろう・・・それにしても・・・一昔前なら、ここは「信仰の夜」と書かれるところだったろうに・・・と感慨を覚えました。逆に、十字架のヨハネからリジューのテレーズまで、聖人聖女を訪れ苦しめた「信仰の夜」、あれも今なら、鬱病と診断されかねない。信仰にも、昼もあれば夜もある。輝く光に照らされる人ほど、夜の冷たさも、睡眠でブラックアウトできずにひっそり絶えなければならないこともあるのだろう。アート評論のところで書いた12月の展覧会で、メランコリアの概念が、神や創造と結びついた後、神を失った近代に、ついに体質と病に矮小化され、鬱病へと変化していくさまをいろいろ見ましたが、神学にまでなっている「信仰の夜」も、ひょっとして鬱病に?
 それで、このガリシェ師がどうして欝になったかといいますと、ノルマンディから一緒に来てイスラエルで17年苦を共にしたアラン修道士の死を看取ったからです。それを振り返って彼は、「信仰は死別の時に役に立たなかった、死はいつも試練だ。しかし、英雄的に喪を生きない、とあきらめて、抵抗せずに受け止めたら、死は新しい生をくれる」と言っています。彼は、2004年にイスラエルに戻り、もう一人の同士である前院長の死を看取り、今度は「欝に落ち込む」ことなく、新院長の任を引き受けたわけです。
 ヴァチカンの聖人認定審査の基本は、英雄的な徳性とか、英雄的な信仰です。だから殉教者などはそれだけで、英雄性が認められるわけですが、この「ヒロイック」というのは、他者のために身を捧げると思えばいいのですが、「強い」とか、「負けない」とかと解釈しちゃうと、夜が来たとき眠れなくなって、「信仰の夜」や欝に突入するのですね。
 ちなみにこのガリシェ師は、1997年の復活祭の夜、ひどい狂乱状態で精神科に運ばれてきた女性が叫んだのを聞いた時に、本当に立ち直ったと言います。看護師がその女性の身につけていた十字架だか聖画のメダルだかを取り外そうとすると、彼女はすごい勢いで、「だめ、これは私の全部だから!」と拒否したというのです。狂乱の中でも残る分かりやすい信仰、小さなオブジェの中にでも自分の全部を託すことができる人の心の不思議、そこにガリシェ師は夜明けの匂いをかぎつけたのでしょう。
 そんなわけで、ショックはできるだけ抵抗せずにやり過ごし、夜が来たら目を閉じ、それでも体調や体質やらの具合で落ち込んでしまったら、それを厳しい目で見ないで、ぼーっと育てていけば、いつか新しい光が差してくるかもしれない、というのが、ガリシェ師に学ぶ欝の正しい過ごし方、でしょうか。

わたくしは絵描きなので自分の体調に敏感にならざるを得ない。特にメンタルなものの動きはもろに作品に反映するので、仕事を抱えて居るときはコントロールしないと困った事態になる。とにかく「やる気」というものに左右されるので、鬱状態というのは実は一番歓迎出来ないのではあるが、えてしてそういう状況に陥っている時間の方が長いのではある。ミケランジェロが自分を慰め励ましてくれていた伴侶を失ったことの絶望ってのはすごく判る。作品が描けなくなる危機でもあるからなんだけど。不安なんですね。先が。

外的要因だけでなく内面の心の動きについて、鬱でだめだめな時が「信仰の夜」であったというのはすごく面白い。十字架の聖ヨハネの「暗夜」のあの自らの内面に向って落ちていく中で神をひたすらに目指しているはずが先の見えないあの悲しみ、絶望。展覧会の前に、描くべき美が見つからず、尚且つ描かねばならぬあの恐怖。中途半端な自らを恥るしかない時の絶望ってのは、暗夜状態を加速していく。
そういう時は過ぎ越すしかないわけで、我儘をいわせてもらえるなら展覧会など延期したい。
レオナルドが作品が全然出来上がらないあの感覚ってのはすごく判る。頭の中に既に作品は存在しているのにそれが再現出来ないときの嫌な気分ってのは絶え難い。作業しているから描けるのだというわけではない。例え一日10分でも乗っているときに描いたものは、24時間以上しがみついて描いた時の描写以上のものを造り出す。
しかし、その啓示ともいえる時というのは、実は自分でもどうしてそうなるのかが判らないことも多い。困ったものである。とにかく盛り上がれる材料ならなんでもいい。作品化することが自らの存在証明となるわけなのでもう必死である。
かくしてマイブームとなるものを探してウロウロとあちこち彷徨いまったく無関係とも思えるものに首を突っ込み、あるいは誰かを愛してうつつを抜かすか、作品の糧なるものを得ようと、様々な奇矯な行為に走る芸術家たちの姿が記録されるのである。
芸術家たちがメランコリア土星に支配されるのはこういうわけであるなどと思うのです。

竹下さんはダ・ヴィンチ本を用意しておられるとのことで、とにかく緩慢な鬱状態にある私としてはなんらかの福音がそこにあるんじゃあるまいか?などとかなり期待してしまうのである。