イエスは笑われたか?

或る方と「かつてイエスは嘲笑されたか」という話をしていて、そういえば『薔薇の名前』のあのスターウォーズの皇帝みたいなホルヘが「イエスは絶対に笑わなかったのだ!」とか言っていたのを思い出す。だからホルヘにとって権威ともいえるアリストテレスが笑いについて記していることなど耐えられなかったようで。
で「道化」「愚者」というのは聖者であるという概念が西洋ヨーロッパにあったなぁ。と、山口昌男氏の「道化の民族学」を引っ張り出してきて読んでみるかと思ったら外箱だけでヤンの・・・・。をい。どうも中身を横浜の実家に置いてきたらしいよ。だめじゃん。
中世やヨーロッパにおける風刺というもの、例えば聖フランシスコは常に楽しそうにしてなくてはいけないと兄弟達に諌めていた。当の本人が愚者ともいえる滑稽なことを沢山しているし、彼の伝記を見ると漫才特集としか思えない内容が多い。しかしこの場合の滑稽は真剣ゆえの滑稽。神の前の単純さを尊重するがゆえの滑稽。聖なる愚者であり、それ故に「神の道化師」であるわけなのだが。嘲笑風刺とは少し違う。
ただ『薔薇の名前』でもウィリアム(フランシスコ会士)とホルヘの論争の中で「だからお前んとこの修道会は云々」と嫌みを言われていたな。実際、フランシスカンは親父ギャグ大杉。ただ師父フランシスコは絶えず笑いがあるのはいいが、下らないジョークで馬鹿笑いをするのは諌めていた。親父ギャグはやめろ。>某師匠

とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽

とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽

神も人も恋し合い、酔い痴れて、宮廷に、閨房に、哄笑が谺する。バフチンラブレー論の絵画版、新世紀の美術史。
内容(「MARC」データベースより)
古代ギリシア・ローマの美術から、ダダ、シュルレアリスム、さらに近年のポップアートなどの諷刺にいたるまで、西洋美術にはユーモアとウィットの歴史が連綿として存在する…」。バフチンラブレー論の絵画版、新世紀の美術史。

上記の藤原書店並の高い本。まだ読破しきれてないんですが、中身が詰まっているわりに冗長で。というのも幾つかは憶測が多く確証ではない為ではあるが。
ただ当時ヨーロッパではかなり早い時機(中世辺り)に聖劇のパロディが存在していたらしい。修道士の記録に残っている。ルネッサンスにいたってはもうなんでもありで、実はいわゆるパロディミサともいえる黒ミサなどもこの時代に生じたようで。ボッカチオの「デカメロン」の時代から教会は聖職者は大衆の嘲笑の対象であったしエラスムスのごとき『痴愚神礼讚』のごとく大まじめな表情の風刺で聖域はたえず批判され続けていたわけである。聖人は奇跡を起こさなければ嘲笑され、あるいは聖座から引きずり降ろされ汚される。それは真面目に働かないからという制裁である。(この聖人への侮辱は青池保子の漫画「修道士ファルコ」の中にも出てくる)ドナテッロは自ら創った彫刻ハバククが素晴らしい出来映えだったのに気を良くして、ハバクク像にケリを入れていたらしい。曰く「ほれほれ、何か言ってみろ」ハバククが彫刻について預言書でぼろかすに言っていることへの復讐なのかどうかは知らない。
イタリア人はとにかく人を笑いものにするのが好きな性があり、関西並の突っ込みをするが、そういえば関西人が関東辺りに来て、時々この突っ込みがすべってしまい人を怒らせることがあるな。
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で、イエスが嘲笑の対象になったかというとちょっと判らない。ただ福音書においてはイエスの死に様自体が嘲笑の対象であった。惨めで弟子にも見捨てられたのがイエスであり、多くの人の笑いものになっていたのがイエスである。イエスに萌えな聖フランシスコが自らを道化師たらんとしたのも、それに倣ってのことではある。
まぁ、今回のムハンマドへの風刺というのはそれとはまったく性質が異るので同じ俎上で語ることは出来ないが、イエスというのはムハンマドと違い全然英雄的人生を送らなかったろいう差異はある。正直ムハンマドの方がかっこいいもんなぁ。絵になると申しますか。三国志みたいにドラマチックだし。漫画にしたり、映画にしたりしても感動しそうな人生であるとは思うが。
こうした「人格モデル」の有様の差異も、それぞれの認識の差異を生じせしめているのではないかと愚考す。