表現と宗教的タブー

・・・・・・・・・・というわけでだ。政治的賭け引きやらなんちゃら抜きに、表現者として今回の事件をどう受け止めたらよいのか?ということがある。
ま・ここっとさんがコメント欄で紹介して下さったアルジャジーラのサイトには風刺画が沢山ある。それもflashアニメで、なかなか出来がいい。充分絵によって風刺する文化は成熟している。
http://english.aljazeera.net/HomePage
だから、テロリストや政治家がカリカチュアライズされても文句はない。事実欧州やアメリカ側のジャーナルにはよくアラブ系の政治家やテロリストに対する風刺画が載っている。けれど唯一ダメなのはムハンマド。聖預言者ムハンマドである。
アラブにとっての預言者(神が直接に話かけた存在)はムハンマド以前にもアダム、アブラハム、モーゼ、イエス徒認識されている。イエスも入っている。その中でもムハンマドは特別扱いである。もともと部族的な宗教指導者でもあり、部族の首長であったムハンマドの生涯は戦いに次ぐ戦いの過酷な人生で、これは当時のアラブ世界では当然のことゆえにそれを以てだから好戦的で平和とほど遠いなどと評価は出来ない。ただこれほど他の預言者に比してもその人生のあきらかなる存在が、聖預言者として特別な地位にあるようだ。ユニークだ。などと思う。
イスラムの中にもシーア派スンナ派といった派があり教義的に色々なものに対し距離感やら価値観が違い、一枚岩ではなさそうだ。過去にムハンマドの肖像が描かれていたり、掻かない像も存在しているというように、ムハンマドに対する表現に関してもどうも色々である。どこでどうなったのかいまいち判らない。
現代イスラムの場合も西洋の近代主義の影響を免れえず、大別して近代主義者と原理主義者とが登場する。イスラム近代主義者はサンシモン主義を受け継いでいるそうで、へぇ。とトリビア原理主義派はホメイニ師に代表されるような厳格なイスラムであり、近代化していこうとする中で伝統的なイスラム的価値を旨とし、シャーリア(イスラム法)への回帰を呼びかける。今日我々が「イスラムって中世的」と印象付けられるのは後者が目立つからではある。
カトリック教会でいうならば、トリエント公会議からピオ十世辺り、或いは第二バチカン公会議までの厳格でゴリゴリの「伝統カトリックマンセー。異教徒は地獄落ち。とーぜんね♪」みたいなそんな存在かも。ラッツィンガーべね16はそこまでは保守ではないが、宗教者として彼らの信条は理解出来るであろう。
とにかく「伝統」におけるタブー。ことに伝統主義者にとってこのタブーへの侵害は、自分自身、あるいは世界を全て否定されるに等しいほどのかなり重要なことで、カトリックに於いても譲れない一線というのがあり、ムハンマドを神聖視する心情というのはそういう感覚なのであろうと想像する。
理論において克服出来ても感覚的に克服出来ないものというものがある。例えば、カトリックでは未だに女性司祭がいない。近代化の中でこれを克服しようという動きはあるものの多くの信者が感覚的にそれを拒絶している。どうも理屈ではわりきれないなにかが横たわっている。同じことが我が国の天皇に関する問題にも言えるし、小泉首相靖国参拝に関してもあるのではないか?どうも理屈、神秘への畏怖、小泉さんにはあんまりそういうのが見えないんだが、(まぁ、あそこまで固執するのもなにかがあるんじゃぁないか?)ただ少なくとも、小野田さんにみるように「国の為に」と戦った人々は信じていた。小野田さんはあきらかに神聖なものとして靖国を見ている。私のような部外者には判らん信仰所在だが、畏怖心という点は判る。
とにかく宗教というものに対する啓蒙主義は、常に宗教に対し優位に立とうとする、優位に立っていると思っている辺りで鼻持ちならないと思う時はある。想像力の欠如を感じる。

■社会秩序とタブー

いわゆる未開社会などを範としてタブーについて考えると、タブーの対象とされるものは、それをタブー対象であると定義している集団にとって、秩序外・制御外の事象である。文明がこれだけ発達しても未だ克服し得ない死などは、その決定的な例として現代人にも実感できるであろう。だが逆に、王権がその共同体(社会)におけるタブーを犯すことによってその権能を成立させている文化もある。たとえば庶民の社会で禁忌とされる近親婚を繰り返すのも、これを理由として説明できる。表面的な説明は「血を濃く保つため」というが、「王族は全体として生殖のタブーの外側にいる」のだとも考え得る。こういった例には、制御外のものを己がものとして取り入れ、共同体の凡百とは一線を画す存在になるという説明もできよう。血によってではなく、タブーによって権力を正当化するのである。
■穢れと聖性
タブーは単に「穢れであるから触れてはならない」のではなく、聖なるものに対しても忌避される例も多い。中華文明における欠字などもその例で、穢れと聖性は表裏一体であり、どちらも通常のレベルの共同体秩序の外側にある。あるいはものによっては共同体の秩序の根幹にある。これに近づくことを禁じることによって、その社会は秩序を保とうとする。根幹と外側とではまったく逆ととらえられるかもしれないが、前者を揺るがすとはつまり文化の屋台骨を突き崩すことであり、後者を疎かにすることは自らの輪郭を掻き消そうとする行為となる。理(ことわり)は「事を分ける」ことを語源とするように、外と内とを分け得ない状態に戻ることは、秩序から混沌に落ちていくことと言えよう。
つまり、タブーという文化的装置によって共同体の秩序を崩す行動を差し止めるはたらきというのは、社会(共同体)を守る機能である。外的な脅威に対してというよりは、その社会そのものが自壊してしまう危険から。だからこそタブーの働きは何者かの意思によるのではなく「自動的」でなければならないのだと、観察者の目は分析する。その視点に立つとき、いかなる事象がタブーの対象とされているかを静謐に分析することは、その社会を理解するための非常に重要な点となる。避けられているものこそが、その社会の秩序の根幹に係わっているからである。
(タブー 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

以前、女人禁制の山にジェンダフリーを標榜する活動家が入山しようとして事件があったがあれも互いの価値の衝突でありましたね。他方はタブーの克服として、他方はタブーの守り手として。互いの価値が相容れない衝突でしたが。
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表現者としてタブーをどう受け止めるか?というと、それが自分自身のもっとも大切なものを阻害しない限り。近づかないだけだ。ムハンマドを肖像化し、風刺することへの自分自身の意義とは何か?といった時、どうもそんなものは興味ないというか、どうも寧ろ、ちょいと伝統的神秘ってな世界は大切にしたいので、おそらくやらない。注文が来てもことわるだろう。表現の自由とは描かない自由も含まれる。
逆に私がイスラム社会でしかも厳格なイスラムで、普通の人物画など描いたらあかんなどといわれる環境で生きていたとして、それでどうするか?といったら描くかもしれない。それしか語る言葉を持たない人間にとってはそれは重要なものだったりする。チキンハートなので、描ける土地に亡命して描くだろうけどね。或いは人物画を描かせろというデモ隊がいたら参加しちゃうよ。
どれほどそれに対して真剣なのかが結局問われる。
ムハンマドを敢てテロリストに仕立てて描くということの必然性がどうもマスコミ側に共感出来ないのだよなぁ。動機にどうも厳しいほどの切実さを感じないんだよ。

ムハンマド様を書いた過去の作家
ヴォルテール、その名もズバリ「狂信者ムハンマド
ゲーテマホメット」戯曲。
読んでないから判らないけど否定的な肖像に書かれているらしいよ。