わいせつという問題と愛の不在

以前も酔った女性と関係「パーティーはそんなもの」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060127-00000024-san-soci
集団強姦の京大生供述
 京都大アメリカンフットボール部の元部員三人が逮捕された集団強姦(ごうかん)事件で、白井淳平
容疑者(22)=工学部四年=ら三人が京都府警の調べに対し「以前にも女子学生と『鍋パーティー』を
開催し、酒に酔った女性と性的関係をもった」と供述していることが二十七日、分かった。「これまでに
もうまくいっていたし、パーティーとはそういうものだと思っていた」とも供述。三人は逮捕容疑につい
て「合意の上だった」などと否認しているが、府警は性的行為を目的にパーティーを開いた可能性もある
とみて、捜査を進めている。

京大も地に落ちたものだ・・・・・・・・_| ̄|○<親父が泣くぞ・・・。
我が大学はとんでもない学校であった。女性を男性社会の中に放り込み女性扱いをまったくしないというすごい処であった。女性だろうが男性であろうが意識しないというのは、教授が男性同士が楽しむようなセクハラなギャグネタをかまそうが男女ともに平然としているような空気があるということである。その性か男性の赤裸々なスケベネタを大量に聞かされて耳年増になったよ。性は超越されたものでった。そういう場において女性は性の対象ではなく対等の存在だったがゆえに意外と性に関してはストイックな人も多かったと思う。つまり各人にそれぞれ自分なりのモラルがあった。
そもそもヌードモデルをデッサンするという課題があるわけで。いちいち裸の女性相手に欲情していたら芸術などできない。欲情は芸術の視点によって相対化され肉体から切り離されていく。
・・・・・・・というわけで先日の続きです。

●uumin3の日記
性文化 
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060127#p1

異性の裸体が常に性的興味の対象となるわけではないことは確かです。むしろ公然と裸体や性器が露出された
場合、そのいやらしさが不快感を与えるものだという考え方から刑法での公然わいせつ罪(第174条)がある
とも考えられますし、わいせつ物頒布罪(わいせつ物陳列罪)(第175条)においても同様です。
 しかしここで問題となるのは何が「わいせつ」であるかの定義でしょう(参考:Wikipedia「わいせつ」)。
「わいせつか芸術か」などの論争がかつて激しく繰り広げられていたのは周知のことです。状況や行為の認識が
受け取る人によって異なるという事態は、法の不備とも捉えられかねない曖昧さをこれら条文に与えていると思
います。

過去には「チャタレイ裁判」というものがありましたね。エッチな小説代表格という事で思春期のドキドキしながら読んだものでございます。今思えばなんともこのような表現で「わいせつ」かと。驚くようなシロモノです。
●チャタレイ裁判
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tyatarefujinn.htm
あれから数十年が経つわけですが、今や日本の文化は見渡すと性への強迫観念が満ちあふれているかのようで、性文化は世界でも類をみない世代間を越えたモノとなっています。これは一つには性(セックス)の問題が階級闘争に組み込まれていった結果でもあるのでしょうが、他の諸国に比しても早熟すぎる現象を生み出してしまったとは思います。また、性の自由による愛の不在という問題が新たに生じている。これは先日紹介した「世界で一番美しい愛の歴史」(藤原書店)で、フェミニズム運動家の反省として「我々は、離婚や中絶、避妊を獲得し、性の抑圧から解放されたが、同時にこれらの自由には代価や負担があり、代償として責任と孤独とが伴うことに気付いて狼狽しています」と指摘しています。現代は「愛」についての再発見が必要な時代だということでしょう。つまり「性愛」と言われるものは相手が存在してはじめて成り立つものであるという事の再発見ですね。存在とは肉体のみならず、精神をも包括してという事です。
日本に於ける性文化は発達はしているが、「相手と関係する」ということの精神性が欠落していると思える事はよくあります。自分の欲望をどのように満たすか?という事が先行している。これはいわゆる男性中心の風俗文化のみならず、フェミニズムの思想にも自己の欲望としての性の解放が中心だなと思えるモノもあり、これらの反省が上記のように指摘されることになりますね。例えばバーチャルな性の氾濫もその一つの形状でしょうが「萌える相手と性は楽しみたいが、リスクを負いたくない」という心理はあるかもしれません。(まぁ萌え文化は「精神的に昇華される」という高度な面もあるんで、一面をみて批判するわけにはいかないと思うけど)現実の女性、或いは男性は我儘で関係を維持するには大変ですし、様々な不安もあります。ですがその我儘や不安を楽しむような関係性の中に愛が存在したりもするものです。まぁ、数少ない体験からいうと、セックスをするというよりもそういう関係のかけ引きの方が遥かに面白いとはいえます。安易にうまくいった付き合いより紆余曲折した恋のほうが面白かったですね。
性に対する教育についてはたまたまブログ徘徊で出会ったdemianさんから教えられましたが、やはりそうした他者への思いやりを持った性への教育ということが、今必要なのではないかなどと思いますね。
で、愛はまことに千差万別なのでこれまた難しい・・・・・・。やはり文学などから学ぶ方がいいかも。

・・・・ただチャタレイ裁判に於ける思想のベース(わいせつはダメ)が単なる「性文化の否定」ではなく一つにはそうした「わいせつ」は女性を単なる欲望の対象として見做す事への嫌悪という事もあると思います。そうすると逆説的に今の時代のほうがより酷いかも・・・などと考えてしまいますね。
◆◆
しかしだ、スーフリといい、暴力団子三京大生といい、この手の勘違い暴力馬鹿は責任をきっちりとらさんとな。被害者のことが心配だが、よくぞ泣き寝入りしなかった。などと思う。
◆◆
「他者への痛みの想像力の欠如」という問題は、なにもこういう場面だけではなく、多くの場面でみられると思う。自我の拡大。権利の拡大。近代が会得してきた「自由」というものを見直すときが来たのかもです。