徳島大学のセクハラを巡る議論について

昨日付けのエントリでセクハラ問題について書いたんですが、社会構造と社会的規範、価値、集団無意識、ってのは難しいなぁと思いますね。
ところで、ちょいとまえにアントニオ・ネグリという人が「マルチチュード」なんてぇことを言ってるそうで、「帝国」という分厚い本をモノしていました。

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

近代が産みだした帝国主義的規範、価値を単純に批判していればよかった時代から更に新たな価値が立ち上がってきた今日について政治的な局面、経済運動の局面などから特にグローバリズムということから派生する様々なことを考察している本ですが「マルチチュード」とかいう語句が引っ掛かって読みきれず積読状態になっております。そもそもがやはり自分の中に政治経済脳がないので、理解が困難なのがなによりも原因ですが、どうもわたくし的にグローバリズムという現象は嫌いなモノの、物事を一概に「どっちが悪い」などと決めつけられない優柔不断さがあり、ネグリさんが描こうとする価値との差異にズレを感じて引っ掛かってしまうのも原因かもしれません。とはいえ「マルチチュード」と言われる言葉が最近脳裏に引っ掛かる場面が多くなりました。中世の大衆の価値を考える時、或いは今日の様々な事件への評価をするとき、脳裏になぜかこの言葉がぱっと浮かぶ場面が多いんですね。ちゃんと読んだわけでもないのにどういうことなんでしょう。
例えば多様性の時代にセクハラという問題の基準値をどのように設定したらいいのか?とかあらゆる倫理、あらゆる社会規範への態度として、厳格な基準と多様な個性の肯定との狭間で揺れ動く自分がいるなぁとは感じますね。
ジャック・ル・ゴフ先生の書に安心するのはそういう倫理面、政治的価値判断というよりは「歴史現象」として歴史を捉えていく。権威の構造のみに着目するわけでもなく、あらゆる価値の取巻かれたカオスとしての中世を丁寧に整理し浮き彫りにする。倫理的な判断はこの際、脇に置かれる。その辺りが安心するのかもしれません。
例えばこんな本があります。

世界で一番美しい愛の歴史

世界で一番美しい愛の歴史

フェミ系らしきインタビュアーが性愛の問題をそれぞれの時代の権威の学者に(中世に関してはル・ゴフ先生に)聞くという構成で成り立っていて、インタビュアーが「教会の倫理=女性蔑視=悪」という前提で対話を進めようとするので噛みあっていないのが何となく笑えました。質問で誘導を一生懸命している必死さが伝わってくるのですがル・ゴフ先生は物事の価値基準をそこには置いていないので、なんとなくずれていくんですね。
物事を判断するときは時には傍観者としての視点を必要とします。どこにも与しない傍観者ですね。なかなか出来ないことです。それ故に異る意見の方の主張を聴くというのは益になることだと、先だってのセクハラ問題を巡るuumin3さんとshojisatoさんの御意見から学ばせていただいたと思います。