今流行りの株関連

カブは煮付けにするのが好きだが漬物もいい。

泥酔論説委員の日経の読み方
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=329372&log=20060117

やはりカブ関係はよくわからないですよ。
読んでもナニがどうしてどうなったか理解出来ないぐらい。
とりあえずライブドアって会社はなんか信用出来ないよ。・・・というかカブだけで上下してるトコってどこもあやしい。どうも株式取引は博打としか思えない頭脳ではついていけない世界なのですね。人間は自分が理解出来ない世界には恐れを抱くものであるが、わたくし的にはファイナンス脳がないんでこういう株世界は魑魅魍魎が跋扈する世界にしか思えませんです。スキヤボデスとか、鼻行類↓が徘徊してる感じ。

鼻行類 (平凡社ライブラリー)

鼻行類 (平凡社ライブラリー)

ところで、ヨーロッパ中世、13世紀になってくると西洋社会は安定し、経済も発展してくる。農地改革なども行われ、また巡礼路を通じて人の行き来が盛んになり、商業も発達する。都市国家も成熟しはじめ、商人という階級が台頭しはじめる。こうした時代に新たに為替の概念が生じ、銀行家という職業が登場する。もともと高利貸しという職種は、キリスト教社会では忌避される職業だった。お金を扱うというのは卑しいことで、しかし社会にとって必要であるこうした仕事は周縁の民であるユダヤ人の仕事であった。その為にユダヤ人はヨーロッパ社会では嫌われるという、まさに現代日本におけるサラ金的存在。ネット右翼ならさしずめ「在日の仕事」などと批判するような感覚でヨーロッパ人はユダヤ人を見ていたようだ。自分たちが周辺に追いやり、尚且つそういう仕事で生きるしかないように仕向け、なおかつ差別するってのはどうよ?などと思うが。ただそうした民族の問題から離れ、「金貸し」という職業ってのはどの時代でも嫌われる。これはどうも普遍的な現象である。
さて、キリスト教徒である商人達の間で大規模な銀行家が登場するにいたって、倫理の問題が生じる。「キリスト教徒なのに金を扱う仕事など・・・。」「俺達は地獄行きか?ちょっとまて。」商人達のそうした後ろめたさが「煉獄」という概念を産みだしたといってもいい。煉獄の登場によって地獄行きの切符が「希望」にすり替わる。「煉獄は希望である」と、ル・ゴフ先生はいうが、のちにプロテスタントに批判される様々な事象は、商人達によるあの世的なニーズが産みだしたのだ。中世において経済は倫理の問題であった、そしてそのプロテスタントは経済に対し倫理的な解決となる理論を産みだす。「煉獄」ではなく「資本主義」という概念を。
また、同時に商人から神の道に入った聖フランシスコは商人的価値と逆行する「清貧」を問題とする。その彼を支持したのが商人達であった。矛盾するような、自己批判されるような価値観のフランシスコ修道会を都市国家の商人達が支えていくこととなる。こうした構造には当時の教会の戦略的な意図もあったかもしれないのだが、やはりあの異常なまでの聖フランシスコ人気、そして驚くほどの勢いでの修道会の発展はこのような商人達のある種の願いが関係していたのだろうと思う。
14世紀末期のフィレンツェにおいては聖アントニーノというドメニコ会の司教が貧しい人々や孤児の為の慈善事業に乗り出すが、その彼を支持したのも商人達であり、彼の事業を支えた。西洋の商人達は社会にそのように還元することで地獄行きの切符から免れようとしたわけだが、現代人である我々からすると蒙昧にも見えるこうした考えはしかし経済における一定の倫理を彼らが常に考えていたということでもある。
倫理なき経済というのは果たしてどうよ?などと考えてしまうわけです。