寓意・人間を通じて知る

中世の寓意は時代が下がると「人」を通じた様々な理解手段が出て来る。
抽象的な概念に「人間」を用いて理解する方法論が頻繁になる。死の表現が人格的に理解されるようなメメントモリの絵画。骸骨がダンスマカブルを奏でる絵などにも見られるし、或いは「徳」が人格的に表現されるジョットーのスグロベリーニ礼拝堂の絵画、ロレンツェッテイの政治の徳、悪徳についての壁画等、中世末期の絵画にはそのような表癌が多くなる。フランシスコは清貧を「貴女清貧」として人格化しそれに仕える騎士として振舞う。
人はなにかを理解するときにもっとも近しい存在である「人」の有様を通じて理解したり、あるいは何かを身近に感じたいときの理想の存在を人格を持って表現する。ギリシャの多くの神、ミューズやフォルトゥーナは女神として表されるし、アニミズムにおいても、恐れという抽象的な概念に形を与える。それは動物であったり、特に位格の高そうな存在、守護してくれるような存在は人物像をとることが多い。そもそもイエス・キリストを「人としてこられた神」として理解する時点で、旧約からの律法を我々が「生きる」ということはどういうことなのかを福音書を通じて学ぶというシステムを導入したがキリスト教であると言える。それは自分自身の体験、経験、或いは知る限りの他者の存在というものを通じて、体感的に理解しやすい方法論だからであろう。
ル・ゴフ先生が指摘するように中世は、フィオーレのヨアキムが提唱した「父なる神の時代、子なるキリストの時代、聖霊の時代」という区分においてまさしく「人間を通じて理解する」イエス・キリストの時代として理解出来うる。
(お客さんが来るので小休止。続く)