寓意・写本から彫刻へ

エバナのベアトの生きた時代。700年代末。イベリア半島の地図はそのほとんどをイスラムに支配されている。当時の西ヨーロッパは辺境であり、イスラムは強大な力をもっていた。フランスのトゥールポアチィエの戦いではイスラムの軍勢と戦火を交え撃退している。大アラブにとっては多少どうでもいい辺境の小競り合いであったに過ぎないこの戦いも西欧の人々にとっては後のフランク王国、引いては今のヨーロッパの基盤となる歴史的出来事出もあったわけだ。この後ベルベル人の侵入など、或いは北方からはバイキングの侵入、よわっちい西欧人にとっては恐怖の出来事が立て続けに起きる。現代のアラブの人々が西洋の文明の侵略に激しく抵抗するが光景の逆転した世界がそこのあったと想像してもよいかもしれない。イベリア半島ピレネーの向うはイスラムの支配と化した状態でレコンキスタ運動が盛んになっていくのである。十字軍はその延長の出来事でもある。
こういう世界がまさにミレニアムを境に起きているわけで、人々は終末論的に世界を捉えていくのである、「ヨハネ黙示録」が読まれた背景にはそうした政情不安があったのである。1000年過ぎた後もこれらの終末論は発展し、ヨアキム主義、カタリ派といった終末思想の色濃い教義を信奉する「異端」が多数排出されたのであろう。
この数百年を通じてベストセラーとなった「ヨハネ黙示録」の写本は多くの人の手によって写本化され、流布していく。そしてこれらの写本を手本にしてロマネスクの彫刻群が誕生した。とエミール・マールさんは指摘しています。

ロマネスクの図像学〈上〉 (中世の図像体系)

ロマネスクの図像学〈上〉 (中世の図像体系)

不安な政情という中で多くの人が信仰に救いをみいだそうとした中世。これらの出来事を契機にキリスト教は西洋社会に一気に広まっていく。教会の中の特定の人々の世界だったものが多くの大衆の興味を引くことになるのである。大衆というのはうまく行ってるときはたいして信仰心も持たないのだが、いったん不安な状況にかられると苦しい時の神頼み的に宗教世界に興味をしめすのはどの時代もどの世界も同じであろう。そしてこれら大衆のニーズが、聖地を、巡礼を、聖人の物語を、聖堂を、修道会を誕生させるのである。
数年前、我々はミレニアムの世紀末を体験した。2000年を目前にして、多くの人はコンピューターの日付の問題が引き起こす誤作動や混乱に気を取られていたが、しかしまたそれ以前よりはなはだ意味不明な黙示的なノストラダムスの詩に末法的な予言や意味を見いだそうとするもの、ハルマゲドンを予測して暴走するもの、世紀末のカルト的な光景、既に科学と合理の世界に於いてすら一部ではあるが狂信的な行動に出るものを目撃した。ましてや情報が少なく世界はまだ神秘や奇跡が日常に存在し悪魔や怪物や天使の存在が信じられていた時代において、人々はミレニアムという終末をどうやり過ごすか大変に気になったことであろう。
かくして黙示録は中世最大のテーマとして流布していくのである。聖職者達は説教においてこれらの終末的光景を語る。天国と地獄の光景は彼らの口から生き生きと再現され、それらは聖職者達の手元にある写本の挿絵から大衆の書物である聖堂へと刻まれる。ロマネスクからゴシックの教会の入り口にはこれらの図像が主題となったものがほとんどと言ってもいい。
エミール・マールはモアサックのサン・ピエール教会のタンパンを例にとり、これらの図像が写本から起こされたと結論する。それもおそらくリエバナのベァトゥスの「ヨハネ黙示録註解」のどれかの写本であろうと考えた。モアサックのタンパンに関しては『薔薇の名前』の舞台となった修道院聖堂の記述に事細かに出て来る。エーコはモアサックの修道院聖堂から「引用」し、あの修道院を作りあげた。
聖職者達は黙示録の視覚的な記号を旧約やら新約やらの他の個所を参照しながらその背後に深い意味を見いだすことにやっきになるが、同時にキリスト教の教えを大衆に伝えるための方法論としての視覚的な記号の効用を自然と身につけていったのであろう。聖書の言葉だけではなく多くの教え、徳や悪徳をいかに判りやすく伝えるか。神秘の出来事をいかに伝えるべきか。彼らは世界の中にあるあらゆるものを総動員しそこに意味を見いだし、(半ば強引に)教えに結びつけ人々を教化する。かくして中世は時代が下がるにつれてどんどんと寓意に満ちていくこととなる。

(小休止、続く)