木のぼり男爵

『木のぼり男爵』を読み終える。

木のぼり男爵

木のぼり男爵

イタロ・カルヴィーノはイタリアの作家でもともと1960代頃のネオ・リアリズモ運動から出てきたそうだ。戦後のイタリアの混乱期を過ごし、共産主義革命に身を投じるも結局脱党する。イタリアの知識人の典型である。イタリアの混乱期のリアルな時代を描いたような作品から一転して、こうした幻想文学を書きはじめるその動機はなんであったのだろうか。私自身はイタリアの現代史も、イタリアの現代文学史もよく知らないので判らないが、例えば民衆の育んできた民話の取材活動にみられるように、彼自身は常に一貫した大衆の側にあろうとしたと言うことだけは何となくは判る。
この作品は『まっぷたつの子爵』『不在の騎士』といった同じく幻想的な設定の作品とあわせて三部作だそうだ。
時はフランス革命前夜、もともとは権勢を振るっていただろう落ちぶれ地方領主の末裔のコシモは姉の作るカタツムリ料理に反抗し木の上によじ登り二度と降りない宣言をする。爵位の巻き返しをはかろうという野心をもった体裁家の父親への反発はそのような形で噴出する。そしてコシモの奇妙な木の上の生活がはじまるのだ。頑固にも生涯、木の上で暮らし続ける彼は恋心を抱く女性の前にも屈せず、しかし単なる隠遁者ではなく自由に世界を動き回り、身分に関わりなく多くの人々と交流をする。領地内の小さな世界に固執する父親と、生きる場の位相を違えただけで無限に広がる世界を手に入れたコシモ。これらの対比はおそらくイタリアの伝統と新しい価値観との対比とパラレルに関係があるのであろう。そしてコシモはどのような誘惑があろうと孤高に理想を貫き通す。
最終的に天に昇るかのようにして姿を消すコシモのラストは預言者エリヤのごときである。
コシモの生活を可能にした森の文化は北イタリア固有の光景でもあっただろう。わたくしの古い友人の家はコモ湖にあり、その庭は森であった。門からしばらく大きな木々が続く森を通り過ぎ、家に向かう。霧が立ちこめると方向を見失ってしまうような怖さがあった。ヨーロッパの文化はこうした森に抱かれている。カルヴィーノの両親は植物学者だという。物語にもたくさんの樹が登場する。語り手であるコシモの弟は最後に伝統的な森の消失を嘆き、インドやアフリカの植生に取って代わった今を嘆く。これらもなにかイタリアが抱える時代の変容への溜息とも受け取れる。残念ながらイタリア史の特に現代の、知識人達が抱えるなにか哀しみめいたそうしたものは私には判らない。しかし彼らの運動が志半ばで何かに迎合したり挫折していっただろう、そういう光景が重なって透けて見えるのは深読みのしすぎであろうか。なにかイタリアの知識人達の作品にはそうした哀しさを感じることがよくある。エーコにしてもそうだが。もしかしたら諦めのよいイタリア人固有の気質にも関係しているのか?
こうした政治運動系の人の作品にはぶつぶつと延々もんくを垂れるような、或いは世を恨むような傾向のモノを感じることもあるけど、イタリア文学にはどうもそういうのをあまり感じない。
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他、イタリアの政治活動家の哀しみめいた作品というとこれ↓

葡萄酒とパン (現代イタリア小説クラシックス)

葡萄酒とパン (現代イタリア小説クラシックス)

ファシズムの時代、国外に亡命していた主人公は郷愁にたえきれず、故郷の村に戻ってくる。そこで彼は、さまざまな人に出会い、理想とは食い違った社会の現実と向きあうことになる。現代イタリア小説の古典の全訳。

このシローネの作品にしてもそうだが、イタリアのこれらの作品に一貫して見えるのは哀しみと共にあるなにかしらの暖かさだ。彼らは絶望しない。どこかに希望をもっているようにみえる。彼らは憎しみをあからさまにしない。他者への愛を感じる。そして自分自身をはぐくんできた土地への、郷への愛情を感じる。どうしようもない人間を取巻く不条理への哀しみと隣人への愛は無意識にある彼らの価値観を浮き彫りにしていると思うのだな。