無原罪の聖母

ジョン・レノンが死んだ日は「無原罪の聖母」の日でもあった。日本人にとって「無原罪の聖母ってなにそれ?」的に馴染みない教義だろうがキリスト教世界ではローマ・カトリックがこれによって「異端」とまで言われるほど物議をかもし出すネタである。聖母、つまり神の母、イエス・キリストの母親たるマリアが無原罪であるとか無原罪で身ごもったとか、ナニてきとーなことほざいているんだよ???てなケチをつけたくなる教義である。事実ルネッサンス期にはこの教義をめぐってドミニコ会フランシスコ会が争っていた歴史があり、フランシスコ会第三会員だったミケランジェロはあの有名なバチカンピエタにおいて「無原罪であるマリア」を表現するためにマリアを若く表現し、当時の教皇庁のえらいさん達から「異端臭い作品」として保留にされたという過去もある。この議論決着が延々とつかず、最終的に1800年代半ばに教義として公式に認められることとなる。この間にも「マリアは無原罪」と主張する人々の手で多くの絵が描かれたり、まぁほぼ公式教義化しつつはあったんだが、きちんと決定されるにはえらい時間がかかったという、気の長い歴史を物語る教義である。
じゃぁ、マリアの無原罪ってナニよ?というと実のところ私もよく分からん。どうも14世紀にドゥンス・スコトゥスが反論を寄せ付けないような論考を書き上げたらしいが、これは何回聞いてもよく分からん。だからプロテスタントの人々が「ただの人であるマリアをあたかも神のごとく扱うが如しへんてこな教義」と批判するのも無理ない。だって私もよくわかんないもん。
ただ、これは「人が聖化される」ということに関わる教義でもあると思う。マリアはただの人であり我々とはなんら変わりはない。しかし神の救済の業という点から、神の母を身ごもるという恵みが既に「計画されていた」というなら、マリアはすでにしてその存在が聖化(無原罪)されていたといえるかもしれない。しかし、実のところ我々もまた救済という聖なるものへ招かれている。マリアはその象徴であり我々の延長の存在でもある。マリアというただの貧しく強要のない女性が神を身ごもるという栄光に招かれるということ、あるいは救われるという具体的な光景がそこにあるというのは大衆にとって感情移入しやすいのかもしれない。「かもしれない」というのは私自身が身ごもった母になったことがないのでよく分からない感覚だからなんですが。
マリアはいう「私は主のはしため。み言葉通りなりますように」
この信仰の姿勢はカトリックの信仰姿勢の根底をなすものである。だからマリアは倣うべき規範として信者に提示されるともいえるのですね。単純に受け止めるなら、ニーチェならさしずめ「ルサンチマンだ。奴隷根性の根源だ」とかいいそうですが、実はそういうのとはほんとうは少し異質かも。
ジョン・レノンポール・マッカートニーが作った有名な曲「let it be」は以下のような歌詞である。

When I find myself in times of trouble,
Mother Mary comes to me,
Speaking words of wisdom, "Let it be."
And in my hour of darkness (in my darkest hour),
she is standing right in front of me,
Speaking words of wisdom, "Let it be."

大文字でMother Maryとあるが一説には聖母を指すといわれている。そして「Let it be」とは「なすがままに、あれかし」というまさに「み言葉通りなりますように」というマリアのあの言葉を連想させる。
この歌詞を書いたのはポール・マッカトニーで彼がすこぶる敬虔な信者だったとは思わないし、ここでのマザーは彼の母とダブらせて語られているらしいが、アイルランド系イギリス人の価値観を垣間見るようで面白い。

その曲の対照的にジョンがイマジンにおいて

Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today....

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace....

You may say I'm a dreamar
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one

・・・と歌った歌詞は、あらゆる宗教や国教、所有というものは平和の疎外要素的な存在と位置づけている。昨日紹介したようにuumin3さんはそれらの思想はお花畑的な理想論に過ぎないと指摘していた。実のところ私自身もこの歌詞だけ読むとそう思うし、平和うんどーな精神が凝縮されていてキモイと思わなくもないが、彼もまたアイルランド出身者で、北アイルランドの問題というのは身近に感じていただろう。それゆえにこれらがどのように語られたのかということを鑑みると一概にも否定も出来ないなぁとは思う。
ただ、彼は「なすがままにあれかし」を抜け出し、自身がカリスマとなり、イエス・キリストのごとき預言者として人々に崇拝されていくようになる。いわば生きる聖人としてあることになるのだが、おそらく狂信的なマーク・チャップマンにとっては「ムカつくヤローだ」ってなことになったんだろう。
もっともチャップマンの殺害理由は不明である。『スターティング・オーヴァー』に失望したとか、熱狂的ファンだがおつむがピヨピヨとか、「有名人を殺して有名になりたかった」とかいってるとか、色々。おそらくオツムピヨピヨ君であることは確かだろうけど、色々とり沙汰されましたねぇ。

*マークチャップマン氏についての詳しい説明をuumin3さんがアップしてくださったので参考にしてくださいです
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20051210#p2

で、こういう光景ってのはカトリック教史の中にも多くあって、いきながら聖人扱いされる存在というのはいつでも出てくるし、聖フランシスコだってそうだし、トマス・アクイナスなんぞも大変だったらしい。第一、そもそもがイエスもそうした人々の熱狂のなかにあったわけで、構造としての「聖人」というものとして捉えるので、チャップマンみたいな発想にはならないが。もしかしたら聖人システムを持たないプロテスタントの人だったのかもなぁ。どうなんだろう?一説によると「キリストよりも有名だ」などとジョンが言っていたのをムカついていたという話だけど。
もっともジョンはべつに「キリストキョーなんてドーでもいいです〜」的な立場だから聖人なんていわれても困るだろうが、中世の聖人っていうのはよーするにジョン・レノンみたいなスーパースターだったわけですよ。それでマリアもまたそういう存在だったんですね。当時の人にとっては既に死んだ人だけど身近な生き方を示した聖なる人。はぁと。という受け止められ方をしていたのかもしれない。
聖人なら清く正しく生きたわけでなく、とんでもなく馬鹿なことをしていたり、わがままだったり、ウザイヤツだったりする人もいて、完全ではない。ある部分において突出しているのがそれがすぐれているからとか、中には「教会に貢献したから」っていうのまでいる始末だし、はなはだ俗っぽい存在でもある。ようするに我々となんら変わりはないけど、ただ死んでいるだけで、死んでるけど名前とか行いが人々の心に留まっているという感じ。マザー・テレサなどはあきらかにそういう存在でしたね。
だから聖人もマリアも特別扱いというわけでなく、聖化されるってどういうこと?な延長にあるとかその人に倣いたい規範としての事例みたいな、そういう形で今も我々に働きかけるそういう存在なのだと思うのですよ。そういう意味ではジョン・レノンも人々に「平和」という考えを始めるきっかけをつくったりしていて「聖人」な要素はぷんぷんだけど本人がすご〜く激しく嫌がるだろうからカトリック的には違うだろうよ。棲み分けだな。第一、イマジンみたいな曲歌われると困っちゃうかもねぇ。シューキョーは存在否定されているわけですし。そもそも神が不在な発想だし。
まぁ「無原罪」についてはいまだよくわかんないので人に説明できる知識もないし。ただ、なんとなく上記のようなことをだらだらと考えたりしてしまいますよ。