ロックの変質とか主夫とか

ジョン・レノンの死の話があちこちで語られておりましたが、昨日のエントリ内容のことをもちょっと考えてみようかな。
ラブピースな彼のメッセージというのは昔はヒッピーなおにーさん方の十八番で、それでもって彼らは社会の公序良俗からみると胡散臭い存在として反政府的な立場にありやんしたね。あれからかなり経ち、ジョンを取り巻く価値というのは朝日新聞ご用達的な、あるいは日教組な教師ご用達的な、或いはうちのギョーカイに蔓延する平和活動大好き系誤用達な、それぞれのエートスを形成するなにかとなりましたね。平和を語るときにはイマジンやなんかを歌ったり。つまりジョンの価値は社会の公序良俗的な部分を担うようになったわけです。
でもそういう思想的なもの抜きに、例えばうちの父などは木走さんに「トラキチ・極右」と認識されるような存在に加え土建ギョーカイに生きる、もう社会の黒幕みたいな、上記のようなジョンのファンからすると敵みたいな人ですが、ジョンが大好きで、わたくしは子供の頃から父の歌うへたくそなビートルズナンバーとか聞かされておりましたし、イマジンやらああいうアルバムを父は耳にたこができるほど聞いていたんで、ジョン・レノンは近しい存在でしたね。(ついでに・・エルトン・ジョンも好きらしいのでこれもタコができるほど聞いたよ)で、英語の成績10段階で2を誇る私などはジョン・レノンのメッセージ性の強い「イマジン」なども、ディープ・パープルの「俺はハイウェイのスターだぞ」とかいうすこぶる馬鹿そうな歌も、同列な存在として、純粋な「音」として聴いていたんで上記の思想とは切り離された存在として考えておりましたよ。たぶんうちの父もそんな感じ。
そのうちもっとヤクザなピストルズとかクラッシュとか、或いはなんとなくシニカルなU2とかポリスとか聴き始め、反社会的な斜め横の、ラブピースなんて恥ずかしいぜみたいな態度の音楽を聴き始めますが、80年代のロックフェスティバル(例えば「ライブエイド」に代表される)がやがて社会の公序良俗側に立ち始め、マスコミなどが好意的に扱い、その日の当たる場所に移行した光景になにか違和感を感じて離れていきましたね。「ボブ・ゲルドフって24時間テレビの欽ちゃんみたいな人だったのか〜」とか、ちょいとがっかりしたというか。
そのころRCサクセションにはまっておりまして、態度の悪いキヨシローの歌う歌が好きでとことんはまりましたです。しかしキヨシローも子供が生まれて守りに入ってしまったのか優等生的メッセージソングを歌い始め、聴くのをやめてしまいました。
実の所、メッセージ内容そのものはそれぞれに賛同もできるものが多いし、反論したいものもありますが、ロックを通じたそういうメッセージの構造を自分が嫌ってしまうのは何故だろうか?というと結局ある種の思想のプロパカンダ構造、「洗脳」という構造、或いはカルト的な気持ち悪さというその「方法論」そのものにどうも違和感を感じてしまうようです。
世の中の人はもっと素直なのであまり違和を感じないんでしょうがひねくれまくったわたくしは昔っからそういうのが苦手なもんで乗れなかったと申しますか。これは個人的な感覚なのでだからそれがいいとか悪いとかそういうものではないとは思いますけど。そういう人もいるのかな?と思います。
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ところで先日もちょこっと書きましたが、亡くなった友人は亡くなる数年前からジョン・レノンに自分を重ね合わせ始めていましたね。生まれつきの疾病のせいで就労できない障害者だったわけで、つまり男としての甲斐性はないが芸術家でもあったので表現者としてなにかしたいという思いもあった。ジョンが主夫宣言をして引退したのは思うところがあったらしいんですが、付き合っていた女性がやはり将来に不安を感じて彼に別れを申し出た辺りでがっくり来て、私のところに泣き付いて来たのがきっかけで、なんとなくなりゆきで結婚という話が出てきたとき、その「主夫」という概念、或いは「才能ある芸術家を支えるということについて」真剣に考えさせられましたね。自分には才能があるとは思っていないので誰かを育てるというのはいいこっちゃ。と、思ったんですが、それ以前に自分に全然甲斐性がない事実と申しますか。要するに誰かのパトロンとか養い手になれるような人間じゃない。
女性性と男性性の生き様の逆転というのはカップル同士の諸事情で多様にあると思うし、あんまり抵抗感はなかったですね。彼が子育てや料理洗濯という役割をするというのはいいこっちゃと思うものの、逆に自分が旦那と子供養うだけの親父女になれない不甲斐なさってのはなぁ。。。そんな時、世の中の男の人に期待されている(家族を支える)ことの重さって実はすごく大変なんだなぁと、実感いたしましたよ。そしてそれに応えるべく黙って働いている男の人は偉いなぁとか。
ジョンの思想と直に向き合ったのってそれが実は初めてだったかもしれない。
ただ、いつでも死が訪れてもおかしくない彼がジョン・レノンに惹かれているって光景は傍で見ていて嫌でした。だからジョン・レノンの死が近い時に亡くなった事もナニか符号的なものを感じてしまったりして、ジョン・レノンは別な意味で特別な存在にはなったなと思います。それもかなり個人的な。他者と共有できないような。

しかしなぁ、未だに誰かを支えるどころか自分自身が下流ニートな状況で人間として不甲斐ないのは困ったものだ。せめて毎年ロマネスク見物に行けるぐらいは甲斐性が欲しいぞ。