ジェンダーと宗教とカルト問題

先日取り上げた大峯山の問題はかなり話題なようですね。宗教とジェンダー・・・。どうもネットであまり評判のよくないこれらのツールのヒエラルキアが宗教>ジェンダーになっちゃってるのを新たに発見。「宗教は嫌いだけど」という枕詞が多いのも少し悲しくなりますがそれはさておき、やはり手続きの礼の問題でしょうね。これが宗教の方が礼を失していたら宗教の方が叩かれて、ヒエラルキアジェンダー>宗教になったかも。
とはいえ大峯山の場合「日本の伝統」という要素も入り込むので、日本の伝統を大切になさる方の怒りも買っちゃったようです。まぁわたくしも、現在形で「右翼様ご用達」と呼ばれる三島由紀夫なんぞを読んで、伝統の美学なんぞに現を抜かしておりますので、やはりやめて欲しいと思っちゃいますよ。
で、先日ご紹介したuumin3さんのブログで「カルト」について語られております。コメント欄に大峯山の方々をカルトっぽくて・・という意見をなさった方がいて、それへの反論をしておられます。

[宗教] カルト?
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20051107

 正直、所謂「村民?」があのような形で結集し抵抗する様は
ある種カルト的で実に気味の悪いものでした

・・というコメントに、uumin3さんが竹下節子さんの著作「カルトか?宗教か?」の文を引用しながら応答しております。ご一読ください。

ネット上でよく見かける意見には、やはり宗教というのは嫌われているのだなぁという感触を得ます。「宗教をやっている人はキモイ」とか。確かにうちの師匠濱ちゃんは世間知らずなトコがあるので、商品券の使い方もよく知らなかったし、百貨店でまごまごしていたし、キモイかも・・・。某修道司祭にいたってはメイドカフェについて詳しく教えてくれたし、キモイかもしれない。ぐりちゃんはカトリック神学者なくせにマルクス左巻きのそれもトロツキストでなんだか一体どういう脳の構造してるんだ?という時点でキモイかもしれない。
・・・・・と、そういうことではないですね。上記のコメントの方は「なにか他者には判らないことを大切にし、集団化している光景がキモイ、カルト的」と言いたいということでしょう。確かに例えば先日、我が教会に「マリア崇敬は間違っている」というビラを配っている人が来たそうで、どうやら福音派と呼ばれるプロテスタントの信者さんなのですが、うちの教会の委員の人が「対応に困った、追い返した」と言っておりましたが、このビラを配りに来た福音派の人からすると「カトリックはマリア像を拝んでいてキモイ。カルト臭い」と考えているのでしょうし、わが教会の人は「わざわざそんなことで他人の教会にビラ配りに来て、キモイ。カルトっぽい」と思ったでしょう。でもこのやり取りを見た宗教などわからない第三者は「なんだかどっちもキモイ。カルトっぽい」と思うでしょうね。
わたくし若かりし頃はハードロックなどに現を抜かした時期があり、「レインボー」というギタリストのリッチー・ブラックモア率いるグループのコンサートに行ったことがございますが、これが乗れないとえらく辛い。鋲打ちのリストバンドなどをして「マイケル・シェンカー・グループ」とか「ホワイトスネイク」とか「AC/DC」とか「ブルーオイスターカルト」のバッジをジャラジャラと革ジャンにつけた長髪のムサイお兄さん達が、こぶしを振り上げて胴間声で「りっち〜〜」とか「こ〜じぃ〜」とかいってる光景を見て「なんだかキモイ」と思ってしまった。・・という過去がございます。音楽はわりと好きだったのですが、この熱狂的なファンについていけなかった。。と、申しますか。
なんでもそうですが何か大切なことに真剣になっている光景っていうのは、その価値を共有しないものにとってはいささか不思議で、多少不気味に映るものだとは思います。でもそれをカルトといい始めたら、世の中のあらゆることはカルトになってしまいますね。そうなると、このトランスジェンダーについて鼻息荒い人々だってカルトに定義されてしまうでしょう。
で、まぁ通常「カルト」とは、反社会的なモノを指すときに使うものです。ハテナの解説にも定義が並んでおります。

1・真理はその組織に占有されており、その組織を通してのみ知ることができると主張する。
2・組織を通して与えられた情報や考え方に対しては、疑ってはならない
3・自分の頭で考えることをしないように指導する
4・世界を組織と外部とに二分する世界観を持つ
5・白黒を常にはっきりさせる傾向が強い
6・外部情報に対して強い警戒感を与え、信者の情報経路に様々な制限を加える
7・信者に対して偏った情報、偽りの情報を提供することがしばしばある
8・組織から離脱した人間からの情報に接することを禁じる
9・家庭や社会との関わりで多くのトラブルを生じている
10・社会からの迫害意識を持ち、それをかえってバネにする
11・外部に対して正体を隠す傾向がある
12・生活が細部にわたって規定される
13・組織が信者の生活のすべてになっている
14・共同体内部でのみ通用する言葉を多く持っている
15・組織からの離脱について極度の恐怖心を与える

カトリックの場合、7があるかも。教義を信者に間違って教える勉強不足の神父とかさ・・。外部情報に関してはこんなトコでブログしている神父とか信者が色々いるからな。ザルだ。14もあるかも。ギョーカイ用語ってヤツね。「典礼」とか、ミサの「感謝の祭儀」とか言われてもわからんよなぁ。普通。でも絵描き世界にもあるよギョーカイ用語。「メディウムがなぁ・・」とか「マチエールがイマイチ」とか連発するとわからない人もいる。印刷関係でも「トンボをあわせる」とか「これマゼンダが濃いんじゃないの〜?」とか言ってるし。編集でも「原稿を落とす」「赤入れ」とかね。

まぁそれはさておき、カルトとは、その共同体が社会生活、市民生活に困るような生き方を強要し、その組織への依存度が異常になってしまうようななんらかの共同体ですね。かなり限られてまいります。

さて、件のジェンダー運動の問題に話をもう一度ふりますが、あの運動家の方が本日騒ぎの大きさに応答しておられました。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akckd603/page5.html大峰山」のこと:2 

05年11月3日「大峰山プロジェクト」に関して:その2
               イダヒロユキ
               (11月7日記)

長い文章なので引用はいたしませんが、お読みください。
私自身トランスジェンダー(性同一障害)に悩める友人がいることを話しましたし、(何の力にもなれないですが)彼の辛い体験の話を聞いたりしておりました。ですからそういうことに苦しむ方について、その苦しみのない社会であってほしいとは願っております。
またフェミニズム(女性差別)についても私自身女性ですから、女性の解放に向けて働いてきた先人達のお陰で今があるということも自覚しておりますが、やはり上記のような主張を読んでも、彼らに寄り添う気持ちが起きません。
宗教者、あるいは村民からの拒絶を受けた、「質問状を送ったのに話し合いが出来なかった」「異なる意見の持ち主と意見交換をしたい」「ワークショップをしたい」というよりも先ず、あの質問状では残念ながら相手を怒らせてしまうだけでしょうね。アレでは対話拒否を質問者が既に行っているわけです。それにまったく思い至らないのが不思議でした。あの質問は論理的に正しいか否かというより、これはもう人としての礼の問題でしょう。そのうえ修験のための聖域は性(欲)の問題は持ち込まない、つまりそれらの煩悩は断ち切ることが前提であるわけで、その聖域に煩悩まみれでやってくるならば殿方でもやはり追い出されてしまいますでしょうね。しかしあの質問状はなんだか性に対するむらむらとした情念がそこはかとなく立ち上がってくるかのようで、質問状を突きつけられたわけでもない私でも目を背けたくなりました。シスターなら卒倒しちゃうだろうし、師匠、濱ちゃんは教会から塩まいて追い出すかも。
そうした客観的な視点が問題提起の側に著しく欠けている時点で、「話し合っても無駄。」「ここにいる女性相手にエロ本などと言い出しそうで嫌。」とか普通だったら思っちゃいますでしょう。信用されていないってことです。ですから話し合いたいならばやはり礼を失わない方法で先ず信用を得て行うべきでしょうね。相手についての学びをなにひとつあの質問からは感じ取れませんでした。
ブログで幾つかのやり取りを見ましたが、今回の方法論には多くの穏健なフェミニズム運動家の方々も疑問を示されたようです。
また内田樹さんも以下のような見解を提示しています。

性的禁忌について
http://blog.tatsuru.com/archives/001349.php
それは大峰山が現在も「女人禁制」を維持している例外的な地のひとつだからである。
つまり、地元の人々は性にかかわる「少数派」儀礼を守っている集団なのである。
「性にかかわる少数派儀礼を守っている集団」に向かって、「性にかかわる儀礼は全社会で斉一的に『正しいもの』でなければならない」と宣告する人々がいる。
これは政治的構図としては(賛成はできないが)理解はできる。
私に理解できないのは、ここで彼らの「政治的正しさ」を担保しているのが「性にかかわる少数派的あり方を守っている〈個人〉に向かって、性的ふるまいは全国斉一的に『正しいもの』でなければならないと強制することは正しくない」という社会理論だということである。
自分自身の主張が自分自身の論拠と背馳していることにどうして彼らは気づかずにいられるのだろう。
それが理解できない。

マイノリティがマイノリティを告発する光景はいったいどうなのですか?ということですね。その論拠が性的マイノリティの苦しみに依拠しているのに・・と、わたくしも思います。
確かにそれとこれとは論点が違う。「何故あなたの宗教は女性を忌避するのですか?」ということを聞きたいだけなんだというのが言い分だとは思いますが(ただしこの質問や疑問への回答はおそらく運動家の方にとって納得のいかない回答になるだろうし、話し合いもおそらく平行線になるであろうことは先日のエントリで書いた)結局、行いに於いて、相手の尊厳を踏みにじってしまったという結果としてしか他者に映らなかったというのは、自らに問いかけるべきことだと思います。
マイノリティであるが故にマイノリティ無罪であるということはないのです。
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大峰山における修験道の歴史についてuumin3さんがアップしておられたので、ご紹介しておきます。

http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20051108#p2
実は修験道に関しても明治五年(1872)修験道禁止令が布告されています。修験は神仏習合でその教義や多種多様な神概念を育んできましたが、それが純粋たるべき復古神道とは相容れないと考えられたのは明らかで、神道の再体系化から外された修験道関係者は廃業するか逼塞するかしかありませんでした。

 この明治五年から明治八年まで、大教院という組織がつくられ仏教も参加させた上で神道国教化の試みがありました。しかしあまりに現実の宗教事情とかけ離れた国教化の試みはここでは挫折し、八年の初めに真言四派が大教院を離脱すると間もなくこれは解散していまいます。そして同年11月27日に「信教の自由」が規定された教部省口達がだされ、制限つきとは言え諸教団はある程度自由に宗教活動ができるようになります。この流れの中で明治十九年(1886)に修験の復旧を認める布告が出され、ようやく修験も息を吹き返すわけです。

 大峰山では修験が禁止されていた間、洞川地元住民たちがその信仰を守っていました。そして復旧許可とともに大峰山寺が建てられ、各地の修験道組織の協力を得て修験道場として再生していったのです。職業宗教者がいなかった時期もあり、また相当山奥のこともあって、この大峰山では女人禁制の廃止が徹底されることなく、そのまま伝統として残されます。とはいえその残された区域というのは山上ヶ岳周辺の東西10キロ、南北24キロの範囲でしかありません。行者がいなくなった間も修験を護持したといういきさつと誇りから、洞川地区の住民たちは女人禁制の伝統を守るということを自らの使命だと未だに考えておられるようです。

彼らも過去に弾圧を受けたマイノリティであるということですね。

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で、わがカトリック教会についてもう一度振り返ってみる。
正直言って、フェミニズム運動の方もトランスジェンダーの方もムカつく要素満載ですぜ。旦那。というようなギョーカイである。しかもスコラなどで教義を論理的に固めまくっているので理屈っぽい。そのくせ女性司祭がいないということには理屈があまりなさそーな「伝統」でやってきちゃったりしている。なんとなく矛盾した変なところだ。
パウロなどはフェミの不倶戴天の敵である。
わが師匠濱ちゃん(神父)がある時「パウロってやなやつだと思わない?」とかいっていたので「なんで?」と聞いたら、「だって、女性蔑視はなはだしいし、理屈っぽいし・・・」
「それにだ、そもそもおそらく女性がリーダーシップを取っていた一派とたぶん敵対していたよ」「ほんとに、パウロってやなやつだよなぁ」「女性は教会で黙っていなさいとかいってるし、腹が立たない?」・・・と、ぐにゃぐにゃいい続けるので、一体、パウロと彼の間に何があったのだろうか?と思いつつ、なだめましたが、ラッツィを尊敬する比較的伝統を大切にする師匠濱ちゃんですら嫌うパウロは確かにフェミな方に嫌われても仕方がないと思う。なかなかお堅くて不器用そうで面白い人だとわたくしなどは思うのですが、目の前にいたらからかうかもしれない(だから「女性は教会で黙れ」などといったのかも)
ただ、宗教というのは、ぐりちゃんもいっていたけど、いずれ変容していくものでもある。カトリックも長い歴史の中で様々な変容を繰り返してきた。もっとも俗っぽい、いい加減が売り物のわが教会は、いずれその時が来たら変容するだろう。(しないかもしれないけどね。あるいは私が死んで更に私の子供辺りに相当する世代が年寄りになったくらいになるかもしれないし。分からないよ)
最近、「女教皇ヨハンナ」という小説が出たらしく、フェミな友人に薦められた・・なもんでつい構えてしまい、なんとなく読むのをためらうんだが、面白いのだろうか?