昨日、靖国のことを書いたが、国家の代表者が公人として参拝するということに別段なにか反発めいたことも感じないというかその辺りのことは今の日常に意識することもないし、だからわりといいかげんに考えていたので、ぎゃぁぎゃぁいう人達のことがいまひとつ理解できなかったですよ。
先日挙げた法務大臣は国家の法の代理人として国家が命ずる「死刑」の施行を行う立場で、凶悪な犯罪者の命を預けられ、裁きを下し、裁きを実行する。しかし凶悪な犯罪者であっても霊的な世界では安らかならんと祈る行為もまた、国家の代理人として行っているわけです。小泉さんの行為が問題になるならこの法務大臣の行為も赦されなくなるでしょう。
また日本の多くの公的なものに実は神棚があったりとか・・・うちの出身大学は国立なんだが神棚があったぞ。彫金をやる人の鍛冶場の守り神だわな。ふいご祭と称して神に奉げる行事があった。生徒は工芸科のお祭りだと理解して飲んだり食ったりするよい機会だと考えていたようだが。海保の船にも神棚があった様な気がする。この手の危険と隣り合わせな場面には公的なものにすら神道という「宗教」が存在しているわけで、面白いなぁとおもいます。
公的な場ではないが、大工さんなんかは危険と隣りあわせなので、地鎮祭とか、棟上とかを大切にする。例えば私の家を建てるときに「家主はクリスチャンだからそういうのはやりません」と簡単に言えたかも知れないが、現場で働く大工はクリスチャンではないので、わたくしは地鎮祭と棟上とは神道でやりました。誰が主体なのかというと大工さんと彼らの信じる神様との関係が主体なのであるわけで、家主はその場面ではどうでもいい。彼らの安全を祈るだけです。ただし全てが建ったとき、その家に移り住む私自身の宗教の形式で「家の祝福」はしましたよ。その場合は今度は移り住むものが主体なわけですから。
靖国の場合、国家の命令、国家の仕事で命を落とした人々と、彼らの神との関係が主体なので、わたくしのごときその現場にいたわけでもない、他宗教の人間が口出ししては失礼なんじゃないかなぁなどと、傍観してしまうわけです。