テレビを点けると、靖国。新聞開くと、靖国。ネットニュースも、靖国。ブログでも、靖国
靖国がなんだというんじゃ。じゃかぁしいわい。
・・・・・といいたくなるような今日この頃。
そもそも宗教観が政治のカードに使われる様相ってなぁ。
宗教右派だの、宗教戦争だの、昨今は「宗教」が悪い要素扱いに結びつくような思考が多い。やだねぇ。信仰領域にずかずかと世俗の都合が入ってくる。聖域がずかずかと世俗に立ち入り偉そうに口を出す。
こういうのってパブリックとプライベートの領域が曖昧になっているのにも通じる気がしますよ。

木走さんの所にも書いたのですが、父の同窓の友人がかつて法務大臣を勤めていたとき、死刑の施行のたびに死刑囚の為に寺に供養に行っていたそうです。こういうのは公人の私的な宗教行事ですね。遺族はそれを以て「犯罪者のために祈るなんて。」「自分の家族の命を奪ったものの為に祈るなんて」と、法務大臣に迫るんでしょうか?
こういう宗教観は確かに日本固有のもので理解しがたいのかもしれません。しかしこういう宗教的なナーバスなものがいつの間にか外交のえさ、政治の餌ととなり、消費されていく。以前には何の取り沙汰もされなかったことを、政治カードとして有効だと切る国はそりゃ利用できるものはさせてもらいまひょ。っていう按配で、軍国主義化への印象操作の一つとして印象つけようとしていますが、元はといえば「平和、無防備都市万歳」とか「9条がなくなったら日本は即軍国化、戦争したがる野蛮な国になる」とかいってる底が抜けまくった短絡脳な人々が引きずり出したことだよ。靖国に祈る人は軍国主義者で、戦争したがるファシストなのか???

それはおいておいて、とにかく、宗教的なものというのは、そういう政治場に持ってくると剣呑になり、困ったことになるとは思います。アメリカのブッシュを支える「宗教右派」も、倫理の法律に必要以上に口出しして法を変えようとするカトリック司教も、憲法9条宣教に忙しいどこぞの司教も・・・いいかげんにしたらどうだ?とか思いたくなりますよ。

聖域と俗はそれぞれに自立し、時に対立することもあるのだがそれでいいのだ。と割り切って我々は、市民として政治を考え参加し、思索する人間として世界をそれぞれの宗教を通じて理解するので、場合によっては自分の中での二つの世界ってものが矛盾することもあるだろうけど、矛盾こそが人間世界の一つの様相でもあるとは思うよ。一致する原理化的思考ではどこかで歪みが出てきていずれあちこちで衝突しちゃうだろうよ。