神観

昨晩ミサに行ったので、堂々とだらけられる日曜日であります。

さて昨日神観の話を書きましたが、今一度考察してみようかなと思います。
きっかけは『福音宣教』誌上における岡田武夫大司教の論考です。ここで彼は高名なプロテスタント神学者が書いた「神の痛みの神学」を取り上げ、母なる神のイメージを東洋人には受け入れやすい神として取り上げています。「わが子を受け入れ包む赦しの神」というイメージは東洋人にとって親しみやすいというのですね。この神観は決して最近出たものではなく、遠藤周作や井上洋次師といったカトリックの作家や聖職者が以前から語っていたものです。
西洋の父性的裁く神に対する東洋の母性的赦しみの神という構造はしかしどうなんでしょうか?父は赦します。背中で赦しますね。母のほうが怖いときがあります。寧ろ女性にとっては母のほうが怖い存在ですね。父の方が娘に甘いですから。こういう観点一つとってもああ、カトリックってやはり男性社会だなぁなどと改めて思うわけですが、まぁそれはおいておいて、つまり、父性にも赦しは存在するし、母にも裁きは存在します。(あの怖い占い師のおばさんなんかまさに裁く母の姿そのものですね。怖いです。)


しかしわたくしはこうした2分法そのものに違和感を感じます。神はなんせ、ただ「在る」存在であるのでイメージとして人間世界に規定される存在ではないと、だからわたくしの神観にはそうした性別そのものが存在しておりません。ただ「存在するもの」のヴィジョンがあるのです。
しかし受肉した神としてのイエスは男性です。これはしかたありません。とりあえずそう現れたのですから。しかしそのイエス像にたいしても個人個人に相違があります。
ガンダムで有名な漫画家の安彦良和氏の漫画作品にイエスを書いたものがありますが、彼は「遠藤周作と田川健三と対極のイエス像がある。僕はどちらかというと田川のイエスにシンパシイは憶えるものの、革命家としてのイエスというのもまた少し違う」といったようなことを解説に書いていましたが、聖書という伝承として残されたイエスの物語も解釈によって様々なイエス像が生じているのです。史的イエスの探求で有名な田川のイエス像はまさに父なる厳しさの側面を持ちますが、遠藤周作のイエスは悲しい弱き人としてのイエスの側面を持ちます。
これらは各個人の体験と感覚、その人の人生の投影であるので、「これがその通りなのだ」という回答は存在し得ないのです。遠藤の場合は戦後すぐのフランス留学での挫折感や幼少時代の母と教会とのかかわりの中ではぐくまれた一種の反発からの投影であり、田川のは左翼的な革命思想に彩られた闘志家としての理想の投影という、あきらかな個人体験に基づく「私的イエス」なのです。井上師もまた過酷な戦争を体験したものの神観から来るものでしょう。軍国教育という厳しい父性を体験した者の切実な思いの投影だとは思います。田川のイエス像をよしとするものは遠藤の情けないイエスや、或いは井上師の母なる神の感覚は理解しがたいものに映るようです。しかし、わたくしはどちらも是であると思うが故に、やはりそれは個人のものなのだというしかありません。
また、受肉したイエスではなく、神観そのもの・・それは中世以前、教父たちは三位一体の原理をあれこれ議論はしましたが、付加される神の性格について教義化したりこうだという明快な指針を公的に示すことはなかったと思います。つまりその部分は個人的なものである、神と個人の問題ゆえになんぴとも入り込むことは出来ない領域だと思うのですね。
「父」なる神という呼びかけはイエスがしめしたものですが、その父には母も父も包括される大文字の神。それは岡田大司教も神には双方の属性が存在するのだとは言っておりますが、しかし言葉に縛られ、固有の属性を一方の性格要素に当てはめて語る手法がどうも硬直しているようにも映ります。

また母なる要素について昔の人は「聖母マリアのとりなし」という存在を発明しました。私はあまり「聖母マリアのとりなし」の必然を感じることはなかったのですが、殿方に聞くとやはり「母マリア」の存在は父なる神への緩衝材になるようです。これは私にはわからない領域ですので、必要とする人が語る分野ですね。しかし必要しない人間がその存在を否定したり無視するというのも違うんじゃないかとは思っています。
岡田大司教は元々プロテスタントからいらした方で、母なるマリアという感覚に対し違和感があったのかもしれません。日本の特にリベラルな発想の方はなんとなく母マリアを否定する人が多いのですが、その欠落をもしかしたら「母なる神、赦しの神」という感覚を明快にすることでおぎなおうとしているのかもしれません。
ただその「対立」として西洋や父性というものを持ち出し対抗させようという2元論的な発想はどうなのでしょうか?東洋にも裁く存在は明快にありましたし、神道の神の多くは祟り神であったりします。インドの神にもおっかない神はいますね。ドゥルガーやシヴァという神は激しい破壊神です。(しかも女性性だったり・・)バリヒンドゥーの神バロンは男性性で、破壊する魔女ランダと対立しています。女性の方がきつく恐ろしい役割を与えられています。だから「母なる赦す神は東洋的でありシンパシーを持ちやすい」といわれてもそうなのか?とは思います。そもそも「東洋は曖昧だ」とするその理論の流れで「父」と「母」と曖昧な感覚に対し類を規定する時点で西洋的な発想になってしまっている矛盾もあります。
根底に、西洋への反発を感じるこれらの発想は翻れば、自分自身の内面の葛藤(聖職者はバチカンと常に緊張関係にあるのかもしれない)を吐露したものに過ぎないとそう思うのです。ですのでこれらを「東洋の〜〜」とか「日本人にとっての〜〜」と普遍化するのは一種の偶像を作り出す行為に通じてしまいます。他者が刻んだものを拝めといわれてもそれは困ってしまいますね。
それゆえに古き先人達はそうした個人体験に基づいた神観を公的に証することはしなかったと思うのですが、最近は聖職者が個人体験を普遍のものとして語るので、戸惑う場面が多くなりました。
遠藤の神観は小説として示されるが故にそれは別次元として考察し、その登場人物を通じた視点でその神観を共有することも可能になりますが、直接的な言葉で語るには難しいものだと思います。