合理性という名の悪魔

新自由主義とかいうシロモノに相当するかどうかはわからないですが、合理主義という考え方が排除する色々なものが存在する。
以前にも言及したと思うが、森一弘司教という人がいる。積極的に著作を出したり。最近は五木寛之と対談したりと、マスコミの露出度も高い。カトリックギョーカイ内の有名人である。しかしこの人は以前このような事をいったことがある。
バチカンの美術品を売り払って、貧しい人に施せ」
激しく愚かな発言で、芸術家の価値を教会内で認めないという、未だに思い出すとムカつく言葉であるが、これも一種の合理化によってあるものを切り捨てる考え方だろう。確かに貧しい人々に施しをするというというのはカトリックの伝統的なお家芸ではあるが、しかし上記の言葉を受けてレデンプトール会のある司祭は「ベタニヤの女にユダが言ったせりふだ。」と吐き捨てるように呟いたという話を以前もこのブログで書いた。何処だったか忘れた。
その福音書のエピソードとは以下のような話である。

エスが食卓についているときに、大層高価なナルドの香油をイエスに献じた女がいた。彼女は自分の髪で以てイエスの足を洗い清めた。それを見ていたユダは「なんつーもったいないことを。それを売ったら貧しい人に施すことが出来るじゃねーか」と彼女をなじるのであるが、しかしイエスはそれを批判したユダを叱る。「何故、この夫人を困らせるのか?この方は善いことをしてくれたのである。貧しい人々は常にあなた方と共にいるが、私はいつもあなた方と共にいるわけではない。この婦人は私の身体に香油を注ぎ葬るための準備をしてくれたのだ」

善いと思ってすることに多寡はないし、そもそもバチカンの美術品とは、教会に捧げるために多くの人が奉納したものである。そしてその美術館には世界中の人が訪れ、聖書のエピソードを記した多くの絵画を見ることによって視覚的に聖書の物語を学ぶことが出来る。語らずとも勝手に絵画が聖書の物語を伝えるのである。こういってしまってはなんだが、森司教の著作よりも多くの人々に福音の物語を伝えている。無言のうちに働いているのだ。

「自分の著作を買う金があるなら、貧しい人に施しなさい」といわないのかなぁ、と意地悪なことを思いつつ、しかし上記の考え方に暗澹たる気持ちになった。日本のカトリックにおける重鎮がそのような理解であるというコトは寂しい限りである。どうりで典礼がダサくなってしまうはずだ。合理化の名の下に切り捨てられるのが経費のかかる芸術の世界である。
実際、芸術品は金がかかる。大衆が所有するには向かない。しかし所属するなにかの団体が所有することは可能である。かつてアメリカで聖堂を作る際、その経費がかかりすぎるのでそれは辞めて慈善事業にまわそうということになったのだが、そこの教区民(それも日頃の生活に苦しい人が多い)が金を出し合い、いい聖堂を立てて欲しいと願ったそうだ。
バチカンの美術品は世界の人々のものであり、神のものであるので、一介の司教ごときが個人的判断でそういう結論を下すのは愚かなことであるし、そもそも「所有」「財産」という経済的価値に目が奪われ、芸術そのものの果たす役割を過小評価しすぎている。美術にしても音楽にしても、宗教が嫌いな人でもそれを楽しむことが出来る。直接的な説教臭い著作物よりも、はるかに多くの福音的恩恵を世界中の人々に与えている。それに気づかない傲慢さがあるのに驚かされてしまう。ナニも文字で書かれたものだけが神学とは限らない。
それに売り払うといっても結局はイタリアあたりの美術館が買うことになるだろうし、その金があったら政府は国民の福祉事業に回せるよなぁ。個人のコレクターが買ったとして、多くの人の目に触れることのない所に行ってしまい、人類の共有財産として拝むことは不可能になってしまうだろう。それに四散してしまうと、教会芸術や西洋美術を学ぶ学者にとっては不便である。
そもそもあれは祈りや典礼のために描かれたものであって、美術館に存在していること自体本当は不自然なのだ。誰でも本来ならば24時間出入りが可能な教会にあるべき存在で、入場料すら必要ない場にあるべきものである。しかしまぁ修復や保存、窃盗団といった頭の痛い問題があるので仕方がないのだろう。

件の司教に直接批判を食らわせたいが機会がないのが残念だな。もっとも出会った瞬間に殴り倒しそうになるので会わない方がいいや。
こんなことをごにょごにょ考えてしまうので懺悔ネタが増える一方である。