心の貧しいものは幸いである

私は在俗に生きるフランシスコ会の人間である。聖フランシスコといえば、裕福なご家庭に生まれ、しかし神に仕えるために一切のものを捨てて、清貧に生きたなどといわれている。そのため例えばフランシスコ会の第一会(男子修道会)の会則では自らの財産を貧しい人に寄付してから無一文となって入会すること。というものがあるそうだ。昨今は親の扶養の義務をしないことになるので、親に財産を譲り渡して入会してくるものが多いそうだ。ある修道士は世俗で某アニメのコレクターでレアモノの、つまりヤフーオークションなどにかけるととんでもない値がつくような色々なアイテムを所有していたそうだが、一部を売り払い、残りは同好の士である友人にそれを譲渡し(その友人いわく「預かっているのだ」そうだが)身一つとなって入会したというコトである。いやはや。
まあそのようにフランシスコ会は会員達が「所有しない」ということを前提としている。しかし大きな会を運営するには財産を所有したり運用しないと成り立たない。そのため「使用権」と「所有権」についての定義をあれこれやりすぎて、ついにはルネッサンス期にルカ・パッチョリというフランシスコ会修道士が「簿記」を発明した。経済に強い修道会になってしまったのだ。そのため「教皇の知らないものは、フランシスコ会の財産と、女子修道会の数、イエズス会が何を考えているか」などというジョークまで生まれることとなる。未だに他の修道会の人が「フランシスコ会の修道服ってポケット多いよねぇ」などと皮肉るのである。
とにかく世間的にはフランシスコ会を特徴付ける性格として「清貧」が取り上げられることは多い。聖フランシスコはとにかく無所有を徹底したくて他の会員達と喧嘩し山篭りをしてしまうし、彼の理想に生きようとした聖クララは「無所有の権利」を教皇から勝ち取るために粘り続けた。映画『薔薇の名前』にも「イエスは財布を持たなかったづら」と言い張るフランシスカンが異端かどうか審問される光景がでてくる。
そういう性格に加え、貧者と生きるという概念もフランシスカンには強い。カトリック内のマルクス主義などといわれる『解放の神学』で有名なレオナルド・ボフもフランシスコ会の修道士であった。日本でもその神学を紹介し、自らホームレス救済という実践の場で働く本田哲郎神父はフランシスコ会士である。
さて、何故長々とこういう話を書いたかというと、よく出入りしている幾つかのブログで「弱者」の問題が語られていたからである。

Meditationes
チャリティーは自己満足、偽善?
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20050914#p2

元はといえばeireneさんが取り上げられた「ほっときたい 世界の貧しさ」という主張についていささかの驚きをもって受け止めたのですが。
その主張とはこれ↓
http://hottokitai.jp/
これを受け、eireneさんはチャリティー等についての定義等をここ数日行っておられます。
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20050915#p2
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20050916#p1
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20050916#p1

またこれに関連して自民圧勝の裏にある自民に票を投じた若者の心理とは?ということでeireneさんが内田樹さんのブログの紹介もしておりますのであわせてお読みくださいです。
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20050914#p3

またuumin3さんが「弱者」という切り口で以下に考察を書いておられます。こちらもハリケーンカトリーナの被災者の問題に人種問題が絡んだことなどを巡る考察が数日前のエントリから語られています。

uumin3の日記
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20050919#p1
弱者について

さて、上記にご紹介したように、いつもご意見を参考にさせていただいているブログの著者が偶然?にも「弱者」という切り口で問題を取り上げておられたので。色々考えさせられてしまいました。
色々考えたことについては少し休んでから、また書き込みます。

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昼に書き込んで、用事ができて中断してしまった続きです。

上記に紹介したeireneさんのエントリでは、チャリティやボランティアに対し「偽善行為である」という批判を行う者がいることに対し、そもそもチャリティにせよ慈善行為にせよ、それらは単に「善を成すという目的ではなく」共同社会の前提があるという話をされていた。つまり「所有する」というのはどういうコトなのかという聖書の話に始まり、チャリティにに臨む姿勢、つまりそれらは強制的なものではなく選択が可能な行為であるのだ。という話である。ひじょうに判りやすく説明されていた。実のところそれが当たり前ではないかと思う話なのであるが、確かにあたかも「善」故に為さねばならない行為とみなして批判する人がいるというのもなんだなぁと思った。

先にフランシスコ会の話を持ち出したのは、こうした所有の問題について常に頭を抱えてきた歴史があったりするからなのだが、彼は托鉢修道会といわれるように在俗の人々の喜捨で暮らしていた。つまりほどこしを受けることは自由なのである。在俗の人々は彼らに施しをする、彼らは社会の人々のために祈り、そして働く。手を必要とする農家を助けたり、らい病患者を助けたり、社会的弱者を助けたりする。施す側は彼らに施すことによって功徳を積むといわれる。こうした相互扶助はヨーロッパだけではなくわが国でも、小乗仏教の国々、或いは他の宗教(例えばイスラム)などにも見ることは出来る。

またフランシスコ会には「兄弟性」という固有の概念がある。これらは会員は全て水平に等しく平等の存在である。つまり会員同士は上も下もないのという考えである。しかし会員同士は常に助け合わねばならない。例えば先日フランシスコ会の第三会の会則についての勉強会があった。その会則によると、まず会員は自らの家族を大切にし、よろしく家政を営まねばならない。そしてその次に他の会員に心を配り、また社会の問題、教会の奉仕等に参加することと。つまり先ず自分自身の面倒、あるいはその責任ある家族を見なさいよ。その余力で出来る限りのことを社会や教会にしなさいよ。というように順番があるのである。「全てをなげうって善を為せ」などという過酷なことは要求していないのである。よく宗教問題で家族を棄て、家財産も売り払って宗教団体に寄付しちゃう人がいるが、在俗に生き、家族という責任を負わねばならないものがいる限りは、家族を泣かせるような宗教活動へののめりこみは責任の放棄である。よろしくないことだと会則は明快に告げているのである。

そして「よきことを為すこと」は絶対必要条件でもなく、あくまでも自由意志に委ねられているのである。だから「ほっときたい世界の貧しさ」に書かれる「私のように慈善事業にメリットを見出せない者を無理やり関わらせる権利もない。」という前提そのものが成り立たないのである。むしろここで問題なのはこれを感じた本人が「善は為さねばならないことなのだ」という強迫観念を持ちすぎていることにあるだろう。

ところで果たして中世の人々は本当に善の為に貧者への施しをしていたのだろうか?これについてあるカルメル会の司祭が面白いことを言っていた。聖フランシスコはまだ若い頃、つまり修道会を始める前の俗人であった頃、ローマ巡礼に行き、乞食に出会い、自らの服を彼に全て与えてしまった。というエピソードがある。また聖マルティヌスという古い聖人は貧しいものに自らのマントを切り分けて与えたというエピソードもある。これらの行為は彼らにとって「相手に対し」為したわけではなく、神に対し為したこととして考えている。つまり彼らは神の救済を求めてそういう行為を為したというのである。善を行うのではなく自らの魂の救いのために行っているのである。それゆえに彼らは既に与えることで受け取っている。というのである。

同じことをマザーテレサの下で働く修道女が言っていたそうである。カメラマンの藤原新也がインドで出くわした修道女のエピソードがある。危険な伝染性の病に倒れ、誰もが見捨てた患者のそばに付き添い死に至る彼を励ましていた修道女がいた。彼はその光景が印象的で、その後その修道女がどうなったのか修道院を訪ねたところ、件の修道女は案の定、伝染性の病に冒され死の床についていた。自らの命を粗末にしてまでそういう行為を行うのは愚かではないか?と問うた彼に、ある修道女は「彼女は受け取ったものがある」というのである。
もしくは次の言葉がある。
フランシスコ会の修道士で南アフリカエイズ患者の為に働いている司祭がいる。彼は「自分は善を為しているわけでもなく彼らに生かされているのだ。」という。

所有の点に於いて富めるものにも飢えはある。精神的飢餓というものがある、日本人の多くはこの飢餓に飢えているものが多い、しかしその飢餓の埋め方を知らないものも多いのではないか。なにも上記の方法論(貧しいものに施すとか、弱者のために働くとか)だけが正しいとは限らない。それぞれの埋め方があるだろう。それは千差万別で世間的な「善を為す」という行為のみが回答とは限らない。しかしその飢餓もまた救いの対象なのだとは思う。霊的師匠、濱ちゃんはそうした「心の貧しい人」に目を向けること。をいう。

まさに隣人にある飢えを見ることが出来ず遠くの弱者のみを言う光景。これらの問題は教会でも度々耳にする。悩みを抱え教会にたどり着いたある人へ「あなたの悩みなどたいしたことがない。もっと辛く苦しむ人が第三世界にいるのだ」という言葉を投げた教会の人がいたそうだ。彼女は酷く傷ついた。そう思えるほど元気ならとっくにそうしていただろう。在世フランシスカンのある女性は「社会問題に目を向けろ」と、社会活動が活発になったのは良いが、そういう働きをしないものをなじる空気が出来上がっていき、会が2分された。あの時は辛かった。と、こぼしていた。ナニかがずれ始めていく光景である。

こうしたズレは、フランシスコ会の第一会でも生じたことがある。先に紹介した貧者のために働く本田神父をはじめとした社会活動家の集団が会の中に出来たときから会の中での調和が乱れ始め、会が二分してしまうという危機に陥ったことがある。互いには互いの言い分があるのだろうがそれぞれが互いをなじり始める。「兄弟性」とはナニも仲がいいとは限らない定義だから兄弟喧嘩をしようが構わないのであるが、それでも会の中に溝が出来てしまったようだ。
また、社会活動を率先して行おうとするある司祭は「ムーブメントを起こさないと」「そのためにはみんなが団結しないと」などと言っていた。わたくしは「そう思うなら先ず一人でもやれば?」と言ったんだが、「大勢の力」を信じる彼はそうは思わなかったらしい。しかしその後、挫折してしまった。彼と同じように考える人ばかりではなかったということなのだが。とにかくどこかにやはりずれが生じてしまったのだろう。

サイトで自殺者を募り死んでいくものがいる社会。ニートと呼ばれる若者を軟弱だと頭ごなしに切り捨てるような物言いもよくない。それについての考察をuumin3さんが行っていた。例えば小泉の政策に対する「弱者切捨て」という表現についての違和感。私自身その言葉を使っている。そのときの念頭にあるのはやはり具体的に発動された幾つかの年金の問題と、障害者自立支援法案の裏にある懸念とであるが、それらには具体的な家庭を持つ友人達や、既にこの世にいない障害者であった友人の人生を念頭に於いていたからではあるが。しかし考えさせられた。確かに「弱者」という時、人は何を念頭に描くのか?と。

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あきらかに世界規模で救いを求めているものへの想像力も必要不可欠なら、隣人の救いを求める声に対しての想像力も大切なんだろうと思う。

持てるものは持たざるものを助けるのが社会共同体であり、経済に余裕のあるものでそれを分かち合うことが可能な状態ならば、為せばいい。精神的に余裕のあるものがいて、精神的余裕のないものを支える余裕のあるものがいるならば、耳を傾ければいい。余裕がないならばいつか余裕がで来たときに行えばいい。ただそれだけの単純なことなのである。でもそれはほんとうに実は難しいことなのかもしれない。
お二人のブログや、そこで紹介されていた様々なブログを読んでまた悩んでしまいましたよ。

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ところで、「第三世界の問題を解決するなら、我々が今の生活水準を落とせばいいのだ。」と、スコトゥスの研究家の八木雄二氏が言っていた。う〜ん。その覚悟はあるか?と問われると自分にはないな。

◆資料◆「弱者」キーワードでの幾つかのエントリ。

○たらたら日録
「弱者」について(メモ)
http://d.hatena.ne.jp/tarataradiary/20050919#1127134401
別の考え方のご紹介。

○園丁日記
…患者という当事者ですが、不愉快です。
http://fruitsofloquat.seesaa.net/article/6963584.html
言葉狩り問題という観点から。筒井康隆の事例について等。

徳保隆夫さんの備忘録
労使協調は労働者の意思だった
http://deztec.jp/design/05/09/18_labor.html
uumin3さんのご紹介。日本における弱者って?労働者という観点から。