「ヒトラー〜最後の12日間」を観る・その2

ヒトラーは芸術家である。すごくアカデミックな絵を描いていたらしい。絵を学ぶときはじめにデッサンを学ぶ。写実を学んで後、どんどんと自分のフォルムを探求することになるが、基本は先ず写実である。ピカソはその写実をわずか12、13の頃に克服していたというのだからやはり天才である。時代は写実からモダニズムの時代へと移行していた。芸術の国であるイタリアのファシストムッソリーニの政権下でも「未来派」と呼ばれるモダニズムの一派が活躍していたし、ソビエト共産主義政権下では「ロシア構成主義」というモダニズムの人々が前衛的な芸術活動をしていた。
未来派については以下を参照してください↓かなり変です。
http://homepage3.nifty.com/arteangelico/sakusaku/2_1.htm
しかしヒトラーは写実でしかもクールベのような自然主義者たちとは違う、どうにも思想的にもつまらなそうな絵画を描いていたらしい。それでは芸術家達に馬鹿にされていただろうなぁと思う。彼のルサンチマンはその点でも筋金入りのものだったには違いない。映画の中では士官達へのルサンチマンを吐露して見せるが、芸術に対するルサンチマンも相当だったようで前衛芸術家達を激しく嫌ったそうである。そして自らが理想とする都市をベルリンに建立しようと夢見る。暴君ネロがそうであったように、どのファシストも芸術都市を目指す。

先日のエントリに沢山の人が来てくださったようだ。福音書の話が冒頭にあったので「いったいナニをほざいているのだ?」という興味のもとにきてくださった方も多いんだろう。「イエスヒトラー福音書の弟子達とナチのやつらを比すのはけしからん。」という方もいるかもしれない。ただ、ある種の信念を信じるというのは実は大切なことでもある。相対主義ニヒリズムというものは創造的ではない。批評家は芸術家にはなれない。その点に於いてヒトラーは「創造する」芸術家の要素を色濃く持った人物ではある。そしてイエスのように宗教史の中でクリエイティブな発想をした多くの宗教家、また哲学史の中での思想家と単なる批評家を分けるのもそのクリエイティビティな発想であると思う。しかし芸術家(或いは思想家、宗教家)はその精神活動の中で時には自分自身をも破壊しなくてはならない。自らのうちに出来た殻に寄りかかればそこで止まってしまう。美は彼方にあり、全て解明したわけではないと芸術家達は絶えず自問する。今解明されたそれは虚である。そうやって立ち止まらず進み続ける。だから彼らを認める人々に対してすら時には裏切らざるを得ない。ミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチもだから孤独なのだ。そしてイエスもまた弟子たちの彼に対する望みを十字架という出来事で打ち砕いたという点で孤独な創造的人間であったといえる。しかし政治家はそういうわけにはいかない。芸術は個人の行為に於いて完結できるが、政治は多くの人を巻き込む。それも国家規模で。
やはりプラトン先生は正しい。
「芸術家を政治家にしてはならない」
さらに、才能の無い芸術家ほど悲惨なものは無い。自らを鼓舞する為に時には自分自身を騙しながらも大きく見せようとする。だが観る目だけはあるので、それが実はすこぶる間違っていることを自覚していたりする。映画の中のヒトラーは彼の作戦が失敗したことを自覚させられるような事実から目をそむけるがごとく怒鳴り散らす。しかし「彼はそれを気づいているのだ。尤も自覚しているのだ」と映画は描く。作戦会議室での表情と、女性達に見せる表情との差はそこにある。
しかし誰であれ「作戦の間違いを認める=負けを認める」というコトはなかなか出来ないものだとは思う。ヒトラーの元々の発想「ドイツの民のため」というのは、当時のどの民族にも根底に存在していた発想ではあっただろう。「人民の為に」をスローガンとした毛沢東もロシア人民のためを受け継いだスターリンも同じであり、遡ればフランス革命を起こした人々も同じであり、自国の大衆の為に・・という発想から、どのような手段をとりどのように治めたかの倫理は歴史が最終的に裁く。しかし当事者にとっては客観的にそれを見つめることはなかなか困難なのだとは思う。勝てばそれは是なるものとして捉えられ、負ければそれは非としたものとして捉えられるという、通常の倫理とは異なる視点で是非が決められる場合も多い。政治の場、それも戦争が絡んだ政治の場に於いて非を認めるのは大変にリスクのあることでもある。
しかしほんというと政治というのは単純な善悪二元論の倫理で裁くには複雑に過ぎる。確かにナチス民族浄化ホロコーストというとんでもない戦争犯罪を生み出したが、しかし彼らを簡単に自分達とはぜんぜん違う悪の存在といいきれるのだろうか?
さて、昨今の「東京裁判」を巡る論争にもそうした複雑な心理を垣間見ることが出来る。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050815/p1
東京裁判の欺瞞性がいまなお、盛んに議論されているのは、裁判自体のインチキさ
というよりも、むしろ、左派や右派が無自覚にはまりこんでしまう、二項対立的な
歴史観に対する、割り切れなさに起因するのではないか。お互いの完全主義がやり
きれない、ただそれだけの動機で、逆にお互いの完全主義をさらに増幅させてしま
う、のだろう・・・。

一言でいって不毛である。

swan_slabさんのこのエントリに同意してしまいます。
結局「勝つ、負ける」というコトで生じる価値は批判するのは可能ではあるが、しかし負けるという事実はこういうことでもあるのだと。リアルな現実を受け入れるかどうかというコトでもあるのだなとは思います。

先のエントリの補足でした。中途半端に終わらせていたのでいらしてくださった方にも申し訳ないと思っておりましたです。
こちらが前のエントリ↓
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20050813/1123936867