聖なる恋愛

漫画家のmagamitioさんのコメントから

なぜか、神父とかシスターものは最後に恋を選ぶか修道院を選ぶかというの
がおおいですよね。
やはり、神の愛を選ぶか人の愛を選ぶかは永遠のテーマなんでしょうね。
ただ、大体において後者がいつも勝つし、それがハッピーエンドになってる・・・

magamitioさんも挙げておられたが、サウンドオブミュージックってそういう物語だったなぁ。子持ち親父と結婚してハッピーエンド。というお話で。しかも女子修道院って女性の墓場みたいな価値で語られた時代も長かったしねぇ。

最近だと韓国映画の「恋する神父」とか言うのがあるらしい。これは厳密には神学生。正教会なら神学生のうちに恋をし結婚し神父になってハッピーエンドだけど、カトリックの場合は、悲しいかな選択肢になってしまう。
サントラが出ているので紹介しておく。

「恋する神父」オリジナル・サウンドトラック(DVD付)

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恥ずかしい写真だな。これのポスターを池袋で見たけど、単純な恋愛物語として受け止めるにはやばい物語だぞ。と思うのは信者だけだろうなぁ。

で、ユリアヌス先生のエントリ・・

クララの祝日によせて
http://iulianus.exblog.jp/tb/3280249
有名な野バラの話がある。フランチェスコとクララがスペロからアッシジ
戻るとき、スペロの人々に影口を建てられた。そのため、フランチェスコ
世間体を気にしたのか、別々に行動しようという。しかし、クララはそのよ
うな世間の影口よりもフランチェスコとともにいることの方が重要であった。
また、フランチェスコは次第にサン・ダミアーノの修道院から足が遠のいて
いく。しかし、クララは常に助言を求め、話をしにくるように懇願している。
 ある意味で、フランチェスコ教皇庁のさまざまな介入を受け入れざるを得
ず、そしてその結果妥協したことは否めないだろう。しかし、クララはそのよ
うな妥協をしなかった。彼女にとって、フランチェスコの言葉がもっとも大事
なことであり、それを守ることが彼女の修道生活のあかしであったのだ。彼女
にとって教皇以上に、フランチェスコが自らの師であり、生き方のモデルであ
ったのである。そのようなクララだからであろう。フランチェスコはクララを
常に尊敬して板であろう。また、以前にも書いたように、フランチェスコは自
分の生き方の重要な決断に関してクララに助言を求めている。フランチェスコ
にとって、クララはやはり心を打ち明けることのできる信頼できる人間であっ
た。

聖職者(司祭、修道士、修道女)の「恋愛」という物語は現代においては、magamitioさんの指摘するように、多くの物語で人間の愛が勝つ。人文主義的な時代にあって、神の愛を選ぶのは狂信的で馬鹿者となってしまう。当然人間への愛が勝ると、どんな物語も繰り返し告げる。反対の物語はどこか醜悪だ。「アマロ神父の恋」に登場する神父は女性の扱いの酷い人物として印象付けられる。
どうも、物語の世界で女性(或いは男性)を選ばないヤツは駄目駄目というのがお約束らしい。しかし現実世界の教会ではどうだろうか?
例えば司祭になるには10年近い学びの時期が必要となる。だから司祭になりたいというのはどこかに就職をするとかそういうことよりも生涯をかけたライフワーク的なものとして考えるのである。とにかくこの期間世俗と縁を切りひたすら学ぶわけで、そしてそうした期間を経るというのはみずからのアイディンティティの中核となるわけで、よく言う愚問「私をとるの?仕事を取るの?」というのを突きつけられたりすると、ははなはだ残酷なことになる。
だから彼らが恋愛をするというのは自らの半生を捨てる覚悟があるのか?という自問をすることになるし、いざ捨てるならばそれは生涯の傷として残ってしまう場合すらある。ハッピーエンドとするにはあまりにも重い選択がそこにある。
とはいえ現実の教会における司祭の恋愛の片鱗、プラトニックなもの一方的なものというのは話題として度々登場する。私の知るある若い司祭は若者に大変に人気があった。珍しくイケメンで、しかも性格はなんとなく純粋(ただし私の好みではないので興味は無い)なものでおば様方から若い女性信者にまで人気があった。アイドル的に人気があるのはいいんだが、中には本気になってしまう信者さんもいる。かくしてお色気むんむんの若いおねーさん信者につきまとわれ(本人もまんざらだったのかどうかは私には不明)教会のおばさんたちの視点では「あわや貞操の危機!」という感じで皆、はらはらして見守っていた。おばさん信者達は流石にみるに見かねて注意したりしていたようだが恋する女性を阻むものはない。かくして彼の上司の主任司祭は悩み、ほとぼりが冷めるまで彼を海外に奉公に出すこととなる。若くてイケメンの司祭はかくも大変な思いをするのが教会という環境である。
別にイケメンでなくても、見目が悪くても、司祭には何故か女性ファンがいる。こんなおっさんに???という神父にまでファンがいたりする。神父に対しては霊性という信仰や精神面での相談に乗ったりしてもらうので、どうしても親密感を憶える。これは仕方がない。(そもそもが私も師匠濱ちゃんはそういう存在なのでいつも頼りにしているけど)
これが嵩じると場合によっては恋愛に昇華してしまうのだ。スタンダールが言うところの「結晶化」が起きてしまうのである。頼りになる上司や友人に相談しているうちに愛を覚えるとかというのと同じだな。大抵は一方通行になってしまうだろうこういうのも、時に双方がそんな気持ちになるプラトニックな愛に結晶化されるならば、ユリアヌス先生が紹介するクララとフランチェスコの物語が誕生するが、世俗的なエロスの愛となると大スキャンダルを巻き起こす。有名なところでは「アベラールとエロイーズ」の物語だろう。

アベラールとエロイーズ―愛と修道の手紙 (岩波文庫 赤 119-1)

アベラールとエロイーズ―愛と修道の手紙 (岩波文庫 赤 119-1)

厳密にはアベラールは聖職者ではない。しかしこの時代の学者は妻帯しないのがどうも重要だったらしい。愛におぼれたアベラールはかなり無様ではあるが、結局悲劇の事件の後、それぞれが修道院に入ったあとの書簡は素晴らしく心を打つ。既に愛を交わすことも出来なくなってしまった二人の応答は悲しくも美しい。
中世の人々はこうしたプラトニックな愛の物語や聖人や聖女のプラトニックな愛の物語を楽しんでいた。フランチェスコが尋ねてこないことで悲しむクララを心配する弟子達は、付き合っている彼氏のことで悲しむ女の子の取り持ち役をしたくなる友人の心理とまったく同様にみえる。
しかしここでは絶対に聖域は壊れない。聖域は堅牢である。神とのことが先ず優先される。神を媒介に彼と彼女は接する、だから美しい・・そういう価値である。
しかし現代の物語は容易く神を捨ててしまう。それが美しいとする。しかしそれは世俗の視点であり、司祭或いは修道者たちのアイディンティティを無視した視点だと思う。あまりにも世俗側に立つ人のエゴイズムに満ちた価値だというのは言いすぎだろうが、それでも「仕事よりも私をとって当然よね」という女や「仕事を捨てて俺に従え」などという旧態依然の男がいたらひっぱたきたくなるのと同じ嫌悪感を感じなくもない。
本当はどっちも大切なだけに悩むよなぁ・・・・・・・・・。実は簡単に片付けられたら困る物語なのだ。

・・・寧ろ、妻をとるか私をとるか?とか、旦那を取るか俺を取るか?にも近い感覚かもねぇ。そうなると不倫だ。相手が神だから何をしてもいいと思っていたら大間違いだじょ。という感じで、かなりどろどろとした怖いことでもあるかも。