女性の祭司

先日のエントリで女性祭司をめぐって、karposさんとmadrigallさんのやり取りでコメント欄が充実し始めたのでまとめておこうと思う。

http://d.hatena.ne.jp/antonian/20050801/1122908769
# karpos 『こんにちは、あんとに庵さま。ちょっと印象を一言失礼します。
>女性司祭となる場合はやはり男性以上にシャーマン的な神秘性を
>纏った人でないと無理かも。
「シャーマン的神秘性」というのはちょっと理解に苦しみます。
なぜかというと、司牧者としてまた祭儀を取仕切る者としての司祭の役割はシャー
マンじゃないと思うから。それは今、ここに現存する秘跡を共同体の中で生きるた
めの奉仕で、そういう意味なら信徒はすべて、その奉仕の役割、祭司職に与ってる
はず。特に「女性ならシャーマン的神秘性」が要るというのは、どうもよくわかり
ませんでした。』

# antonian 
karpos様>
「シャーマン」という言葉に引っかかっておられるようですが、「シャーマン的神
秘性」とは、かなり下世話な意味で、厳密な神学的意味をこめたわけではありませ
んが。ただ、現実の教会では理屈や理想論だけでは結局、聖公会のような混乱と分
裂を招いてしまう。今、現在の信徒の考え方ではね。だから今の時点では「あやし
い」雰囲気があるような女性ぐらいでないとみんな納得しないんじゃないかと。
そもそもが第2バチカンが施行されて未だ混乱が続いている中でさらに過激な改革
をしたらとんでもないことになるでしょう。女性司祭に関してはもう一世紀ぐらい
待ったほうがいいと思いますね。過激な改革を波状攻撃で行うと結局つぶれます。
わたくしは気長に考えています。』
# antonian 『karpos様>
ええっと、かなりふざけた考え方ではあるんですが、一つぐらい旧態依然な組織が
あっても面白いとは思いますです。なんでも「人権」「平等」とかで全部が一緒く
たになると面白みのない社会になると思うことしきり。へんてこで「中世」と揶揄
されるようなシロモノがあるのも面白いと思うのです。
(やっぱり女性司祭も独身制になるのかなぁ?司祭の勉強のための共同生活はやっ
ぱり男女別か?)
ただ、わたくしは女性だからなのか、今のところ、女性司祭は別に必要としており
ませんです。なりたいと思うこともありませんが、何故必要なのかがイマイチわか
らないので、個人的にあまりその問題に対し、切実でないのかもしれません。
(男ばかりの社会で成り立つ前提がなくなると、ヤオイの人の楽しみが半減しそう
だ・・・<不謹慎)』

# karpos 『素早いご返答ありがとうです。しかし、「あやしい雰囲気」「シャー
マン」とくると、いったいどんな女性司祭像になるかって(笑)、かなり可笑しい
ね。まぁ、それほどに想像できぬ話なんですよね、現実のところ。そのへんはわか
っております。あと、女性司祭も独身制になるのか?の問いですが、ドキッとしま
した。ぜんぜん考えてなかったから。というわけで、私が頭の中で図式化してたの
は、司祭の独身性→(壊れ)結婚あり→女性司祭も可、だったのだと気付いた次第。』

# antonian 『karpos様>
女性牧師も現実の教会ではかなり苦労しているようです。女性牧師を認めつつも本
音では自分の教会には招きたくはないなどという声も聞いたことがあります。やは
り信徒側の意識が変わらないと難しいでしょうね(^^;女性の平等の権利が認められ
て一世紀が経ったばかりです。大衆の意識がより変化していかないと難しい問題な
のかもしれません。しかし独身性をやめるとなると今の教会の経済では立ち行かな
くなるので、現実として難しい諸問題も生まれるかもしれません。(それに甘えき
ってきた信徒はその負担を覚悟できるのか?)また、世襲というばかげた現象も生
まれる可能性もあります。それこそ、それを踏まえ地盤を整えてからでないと難し
いかも。こちらもかなり時間はかかりそう・・・。あと、高位聖職者のみ独身とい
う、修道会から出すという正教会方式や、僧正は独身者しかなれない禅宗のような
方法もあります』
# antonian 『独身制も「伝統」という中で揺籃されてきたものだけに神学的根拠
は意外と希薄かもしれない。しかし動揺の大きな問題でもあり、女性司祭同様、神
学的根拠をしっかりと築かないとよろしくない。やはり神学議論を徹底して基盤を
作ってから施行するしかないなどと思います。秘蹟、神秘という観点を失った議論
では駄目なのです。フェミ神学の多くが説得性を持たないのはここが脆弱だからだ
と思います。マリアについての神学を利用したほうが早いと思う・・な。』

# madrigall 『karpos様>司祭の独身性→(壊れ)結婚あり→女性司祭も可

これは、前述したのですがかなりキツいことになると思います。実例なんですが
(大汗)。
>とある神学生(♂)の取り合いで信徒の女性が掴み合いの喧嘩(in 教会)。
>とある牧師先生(イケメン)の奥さまがその牧師先生の夫人の座を狙っていた女
性に苛められ、ノイローゼ。
>女性牧師さんの結婚問題(結婚したい人も多いけど、お話を聞いてみると理想が
ちと高い。女らしく綺麗な人も多いが、信徒や同業にとっても高嶺の花に思われや
すい)。

それが解決しているとして…。
>あんとに庵さんご指摘どおり、経済的に…
(聖職者が給与制となるとすると扶養手当などかなり重…逆に牧師さんが信徒さん
に逆らえない状況も発生。個人的にあまりの状況を見かね、知人を通じてとある牧
師さんに結婚式場の仕事をお世話したことがあります)。
>子女が教会に不自然な形で縛られる(所謂、世襲…とか厳しすぎる親や教会に反
発して棄教とか)。
>何の疑問も無く牧師稼業を継いだはいいけれど、向いていなかった…(本人が激
しく後悔あるいは、信徒への迷惑などの実害発生とも…)。
他、様々な問題をはらんでおります。なので、聖職者独身制は実は非常に合理的だ
ったりして、と個人的には思いますです。』

# karpos 『人間的(一般生活レベル問題)な問題としていろんなことがでるから、
聖職者の独身性が合理的っていうのは、これまで言われてきてることですよね。プ
ロテスタントの方(牧師さん)からもうかがったことあります。ってことは・・・
司祭の独身性→やっぱり聖職者は独身→女性の司祭職有り(もち独身)
ってあたりはどうなんでしょうね(一般生活レベルでの問題として)?

# madrigall 『>karposさま
>司祭の独身性→やっぱり聖職者は独身→女性の司祭職有り(もち独身)
えっと、議論のつもりも無かったんですけど(それは私には無理です)。
プロテスタントの女性牧師さんや神学生の方とお話すると、(そうでない人もいる
と思いますけど…)大概は結婚したいという希望は持っておられるんですね。それ
もやっぱり同じクリスチャンとという希望が。その結果起こるトラブル多発という
のがあるわけで、で…プロテスタントには『キリストの花嫁』とかいう考えも無い
というか薄いんで、結婚願望が叶わないのはナカナカ寂しいことではあるらしき。
一人一人、ものすごいお洒落なところから見て(華美というのでなくて清楚です。
ただ、『これだけは!』というこだわりやポリシーのある方多い…『勝負!』って
感じです)、やっぱり振り向いて欲しい女ごころはあるらしき…。結果、人間的に
立派な人も沢山いるけど、ちょっとキツい人も出てしまうような感じします。
その辺、以前シスターにお伺いしたとき「この指輪はそういった時期の一つの支え
でしたね…」と遠い目。「彼氏と楽しそうにしている女性、流行の服でカッコよく
している女性を見るのが嫌だという『困った自分』がいましたねえ」とか、そこら
辺は割とおっとりされている方が多かったかあ、と。そのおっとり具合が「世間知
らず過ぎ」という困ったところにも繋がってるかな、と思うのですけど、それでい
いこともあろうなあ、とも思ったり。
それが巫女さん的におミサをと言うと…どうなのかなあ、と。神道斎宮みたいな
ことになると、やっぱりカトリック教会全体の人事とかの上で大変だと思います。
助祭さんも含めてかなりの配慮が必要だし、ミサそのものの形も変わる可能性が無
いかな、とか考えたり。』

# karpos 『>madrigallさん
でもこういうお話がうかがえるのはとても興味深いです。視点というか、なるほど
ーとわされます。「神道斎宮みたいなもの」になると・・・大変、という発想も
意表をつかれました。
思えば、たとえば、修道女って「尼僧」とは言われますが、「巫女」扱いされるこ
とはないんですよね。では、「ミサをたてる」というのは、いったい儀式として、
「巫女が舞う」に近いのか、「僧がお経を読む」に近いのか(もしも、女性司祭が
誕生した場合)、あるいは、やっぱり、「(女性)司祭」は「修道女」とはまった
く別ものなのか?もしかしたら、修道女が尼僧なら、女性司祭は巫女なのか?いや
ー、へんな話になってきましたねー。
>振り向いて欲しい女ごころ・・・
振り向いて欲しい男ごころのある司祭さんたちもいるのでは?(アゲアシトリ、
へへへ)。とはいえ、こういう部分が細かく浮かび上がってくると、ほんと難しい
なぁと思わされます。』

# madrigall 『男ごころは、私は立ち入ったことは聞いてないんですが(聞いてた
ら大変ですわ)、牧師さんは余程に性格が悪くない限りは売り手市場かなあ、とか。
やっぱり皆の前でハナシする、ということになるとそれなりビシッと決めてますね。
(でも修道士さんはどうなのか?)
そう、全く余談ですが…私のお会いしたシスターは何故か関西系の「ぶっちゃけた
人」が多かったのですが…。地方選挙のシーズンで(教会に行く道で)間近に見た
女性議員の洋服の色が真っ赤で『似合う似合わない以前に強烈だった』というお話
をしてたら、「それはバットルスーツやでー。自分は強いんや…って、はっきり示
すために目立たなあかん。はるか昔の鎧や陣羽織と同じや」って仰ったシスターが
いました。

>巫女
実は、妹が冠婚葬祭関係の企業に勤務していたことがありまして、6月やら10月く
らいの結婚式の多いシーズンになると「巫女」の応援に行っていたのです。そうい
うとこって、引退した神主さんのバイトなんですな。で、臨時巫女は、祝詞のなか、
雅楽に合わせて踊ったり、三々九度のお神酒をついだり…だったそうです。
以前、そんな彼女にホスチアが聖変化…の次第をちらと話したところ、「何だかイ
タコが霊を寄せているみたいだねー」と。女性が神父さんのしている「その所作」
と「奉献文」をやったら知らない人には『口寄せ』に似ちゃうのだろうか、がーん、
とか御ミサの時につい考えてしまいました。』

# antonian 『司祭の役割を考えるなら現代の巫女さんというよりは沖縄のユタが
相当するかと思いますね。神道ではやはり神主でしょう。彼らはいわば天と人間を
結ぶ仲立ちの存在です。預言者としてはノロが相当するかと思います。与論で神父
が私の家の祝別をしたときに島の人は一切カトリック典礼というものを知りませ
んでしたが、司祭の所作を見て神主と同じことをするといって親近感を感じたと申
していました。島にはプロテスタント聖霊派の流れを汲む独特のキリスト教会が
ありますが、島の方は彼らにはかなり異質なものを感じると言っていました。尤も
日本の宗教史の中では聖霊派のような性質を持つ教団も存在しているので、それを
知っているならそれに近いと考えたでしょう。
尚、巫女さんをやっていた知り合いの話では「処女かどうか」をはじめに聞かれた
らしいです。今はどうか知りませんが、へぇ〜と思った記憶があります。
うちに来るシスターは修道服を自らを守る服であり、これによってどんな危険な場
所にでも行くことができるといっておりましたね。第三世界に於いては女性は絶え
ず危険に晒される為に、そして同時にその服は常に自らがどのような召命にあるの
かを確認させられるものでもあると。』

# karpos 『実は昔、巫女舞いをならったことがあったんです(ちょこっと)。その
ときに感じたのは「媒介(仲介)役」であることの宙ぶらりんさ、でした。ユタと
いうことになると、もっと実存的な印象を持ちます。実際になったことがないので
わからないんですけど、もっと人格的というか。ユタなら、結婚しても、女性でも
OKでしょ?昔テレビで、ベテランのユタが新しいユタになれそうな女性を探して、
彼女を説得してユタ修行させるというドキュメンタリを見たことがありますが、壮
絶でした。
言われた女性は泣きながらの修行でした。でも、気持ちわかります。

>女性がやったら「口寄せ」に似ちゃう

どーなんでしょうね。冗談で奉献文を読んで手まねしたことがありますが(子ども
が遊んだりするでしょ?)、客観的にはなんの問題もないと私は思いました(自分
がしたからか?)。冗談ではやってたんですが、そのジェスチャーは非常に大切な
もので、「取っ
て、奉げて、渡す」というこの一連の動きには、礼拝・儀式はもちろん、生活その
ものという深い意味があるのだなと思わされた次第。私にはその動きが、女性であ
ろうと男性であろうと、あまり違和感はないなぁという感じです。』

かなり長く引用してしまいましたが、もったいないので改めてしっかり考えたいネタが多かったので。

先ず、宗教祭儀における巫女さんという観点からはuumin3さんが以下のエントリで連載考察しておりますのでご覧下さい。やはり専門家に聞くのが一番ですよね(^^;

聖とかかわる女性1
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20050805#p1
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20050806#p1
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20050807#p1

アニミズムにおいて、女性は神との仲立ちをする役割として、積極的に祭儀の中心者として存在していましたね。日本だけではなく多くの世界で見られる現象です。そういう女性に求められる行為の多くは「預言」であったりします。古代中国などにも見られますが、中国はかなり早い時代から祭儀の中心は男性に移行していたようですね。こうした考察に関してはまぁ私は素人考えであーだこーだ言うよりuumin3さんのエントリを読むのが早いと思います。

で、キリスト教カトリックにおける女性祭司の問題についてですが、やはり司祭という役割の性質がナニであるか?という観点から考えないといけないとは思います。信徒と司祭を隔てる役割の差異は、やはり「秘蹟の施行者」であるということでしょう。特にミサの祭儀に関しては厳密です。プロテスタントにも司祭職になるための「按手」という儀式があり、こうした儀式を経ないのは例えば、無教会派のようなものや救世軍のようなはっきりとした目的を持ったキリスト教派などごく一部です。
こうした儀式に対し何故女性が駄目であったかというとやはりどうしても聖書が根拠となってしまう。父権社会の色濃いユダヤ教の系譜としてキリスト教はあり、過ぎ越しの祭りにおける食卓での儀式に於いても家父長が祭司として振舞います。最後の晩餐におけるイエスユダヤのこの儀典に乗っ取ったやり方で弟子達を食卓を囲み、出エジプトを記念し、種のないパンを裂き、神に感謝の祈りを捧げたわけです。
これらの物語を紡ぎ構成するのは、モーゼであり、その後の多くの預言者や王であり、イエスであり、また神への犠牲の捧げものという観点ではアブラハムも入りますが、どれも男です。ユダヤの社会がそういう父権社会だったから別に理屈もなく男で当たり前だったわけなんですね。
当時の概念では女性祭司を擁する宗教はユダヤ教からも(あるいは初期キリスト教からも)異教であり、偶像崇拝などと悪口を言う対象だったわけです。巫女さんを持つ宗教は例えば神殿娼婦=巫女さんだったりとか、まぁそういうのもあったりと、男臭いユダヤ教はそういう他宗教を「あやしからん」などと遠ざけていたとは思います。
エスユダヤの伝統的なものからどーでもいい慣習などはほんとにどーでもいいというか、神と人間の直接的な契約をしにやってきたわけで、どーでもいい慣習からユダヤの伝統における大切な教えや慣習を抽出して見せたわけです。で、聖書によるならば彼は教団を男性の弟子を中心に固めているわけですが、どーも女性の役割もかなり大きかったんじゃないの?という研究もあるようです。だから男性とか女性とか分けて考えるのはどうよ?という結論を導き出す人もいます。
伝統や聖書の物語を視覚的に再現するとして、その劇場効果を考えるなら、イエスはやはり男だし、女性がそれを行うなら、なーんとなく宝塚になってしまいます。イエスの過ぎ越しのあの席を容易く想像するには確かに男性のほうが都合はよい。でもイエスは爺さんでもなかったし、ユダヤ人だし、腰の曲がった白髪の神父や、白人や黒人や黄色人種がやるのはどうよ?とか、色々突込みどころも出てきてしまいますね。
だから、女性の祭司を否定する根拠というのはあまりない。かといって積極的にだから女性を入れなくてはならないという根拠となるとこれも聖書や伝承などから拾うことは出来ないわけで、私などはよく分かりません。
けれど教会で「どう思う?」と聞くと本音はやはり「男性がいい」という。理屈じゃないナニかというのは伝統によってずっと培われた慣習に存在しているわけで、こういうのを理屈でつぶすと反動が怖かったりもしますね。だからかなりの積極的な神学的な根拠を必要とすると思うのです。
カトリック史における女性の役割は果たして本当にいつも影なのかというとそうでもなくとんでもないすごい女性が聖人として多数いますね。例えばドメニコ会のシエナの聖カタリナ。彼女は教皇すら叱責する怖い女性でした。ビンゲンのヒルデガルトは聖ベルナールと交流があったそうで、彼女の知識を聖ベルナールも一目置いていたようです。聖フランシスコと共に語られる聖クララについてはユリアヌス先生が以下のエントリで書いていますが、聖フランシスコの知恵袋だったりしたらしいです。

クララ
http://iulianus.exblog.jp/3247777/
http://iulianus.exblog.jp/3252822/
http://iulianus.exblog.jp/3259340/ 

近代での大物はやはりアビラの聖テレジアでしょうね。
女性の聖人で学者並の知識を備え、神秘神学について探求した女性の修道女というのは探すと結構いたりします。名を残さなかった女性達の中にもそういう人は沢山いたと思われます。そういう叡智を遊ばせておくのはもったいない。という考えの司祭も多いようです。
確かにあのマザーテレサに太刀打ちできる現代の聖職者はなかなかいないでしょう。ですがこうした才能は彼女らが「修道女」であったからこそであり、修道士も含め、そうした道を探求するべき背景を用意されている立場であったからともいえます。(俗界に生きて子供育てながらとか、明日の糧を心配しながらとかじゃ中途半端にしか出来ないもんなぁ)聖フランシスコも司祭ではありませんでしたし、トマス・アクイナスも司祭というよりはやはりドミニコ会の修道者だからこそ研究に没頭出来たわけです。
司祭はそういう次元の職務とはまた違うものですから、違う視点、つまりやはり「秘蹟」という観点から論じるしかないと思うのですね。まぁ、私は秘蹟神学などはよく分かりませんから、専門家に任せるしかないわけです。どうしても女性司祭を欲するという方は秘蹟神学から究めてみて欲しいですね。

・・・・・・・・・・・・というわけでぜんぜん結論が出ないなぁ・・・。

とりあえず祭儀に関わるのは、預言職でもなく、王職でもなく、やはり祭司職の部分なんですよねぇ。預言職も王職も女性でも出来るというか、先にあげた多くの女性の聖人は立派に預言職をしていたわけです。

神学的要素ではなく現実の教会の下世話な部分では、例えばkarposさんが出された「女性も独身」という問題点、修道女会で共同生活する女性司祭とかなら可能か。若い女性司祭が司祭館に一人というのはなんとなく物騒だよなぁ・・・。