伝統はたやすく壊れる

おガキ様と過ごした数日、あらゆる体力を消耗した。お子様の扱いに慣れていないわたくしにとっての非日常で、毎週こんなことやってる教会学校の方たちはほんとに偉いなどと思いました。そんな「ガキ嫌い」人間はわたくしだけかと思ったら、付き添いで来た主任司祭のO神父はもっと苦手なようでした。身の置き所をどうしていいか分からぬ模様。なんせおガキ様が主人公なわけですから、彼らに合わせるしかないので、酒はない。食後の一服も自在にならない。典型的なクソ親父な主任司祭0神父を観察していると、「今、煙草がすいたいんだろうなぁ〜」とか「珈琲が飲みたいんだろうなぁ〜」とか「ビールが飲みたいんだろうなぁ〜」という心理状況が掴めるのです。大人なので当然放置しておいたが、それでもこっそり観察していると、あの年齢のおっさん固有のしたいことを我慢するが本当は我慢したくないというアンビバレントな心理を熟成させていて、そのようなストレスを放置しておくと終いに噴火するので、一応「珈琲飲みたいんじゃありません?」とか「煙草を吸うならここでどうぞ」とか勧めたりしておりました。
ところで、O神父となんとなく珈琲を飲んでいる席でイコンの話になりましたよ。彼は以前イコンをめぐるツアーを行ったことがあり、トレチャコフ美術館とか、ルーマニア世界遺産の教会群とかを回った話をしておりました。O神父は日本のカトリック教会でも重鎮の神学者であり、教父神学の碩学でもあり、そんな人が案内するツアーってのはすごそうです。以前そのツアーを紹介してくださった方がいたんですが、スケジュールとお金が合わず断念した記憶があります。イコンについてやプレゼピオの解説などを聞くことが出来て、かなり得をしましたですね。ナニよりも絵画は典礼の為にあるという立場の方であり、美術に頓珍漢な司祭が多い中、話が通じやすい。「伝統」というものの重みと効用をよく知っているため、典礼における宗教芸術をないがしろにしていないのが嬉しいですね。
ただその伝統の持つ重要性を知るO神父のせいで最近S教会内の聖櫃の位置やらなんやらが変わり、S教会では色々大変だったようです。聖櫃が聖堂の中心に収められ、マリア像が祭壇の右手に安置されたのですが信徒達に相談もなしにやったというコトで、まぁ信徒会などでは不満の声も聞かれたというコトです。わたくし的には収まるトコに収まったのでよいではないか。などと思うわけです。聖堂における視覚効果はなにも絵だけではなく、空間における個物の配置も重要なのです。神が聖堂にいるというのを物理的に示すことは大切だと考えるからです。元々そういう伝統があったのを最近は典礼改革と称して試行錯誤するものですから、神学者達の都合であれこれと変わり、確かに信者としては右往左往させられ困ったことになったとは思います。神父が変わると全てが変化する状況というのはどうなのか?という思いが信徒側にはあるようです。
一緒にいった教会学校のリーダーはどちらかというとかなりリベラルで、発想はプロテスタント的なので、やはりその保守的なO神父とぶつかることが多いようです。しかしプロテスタントはそこに至るまでの長い葛藤と伝統と神学に裏付けられた様式があり、それを単純に引用しているような昨今のカトリック教会の安易さは逆にどうかとは思います。伝統とは固有性であり、固有の崩してはいけない「礼」というものが存在すると思うのです。プロテスタントには彼らが血を流して得た、葛藤の果てに築いた「礼」が存在し、カトリックにも同じように長い時間をかけた「礼」があると思うのです。
聖と俗における役割分担というものがあるならば、典礼は聖域に属するものであり、やはりプロフェッショナルな方々の言葉には重みがあるわけで、信徒側からの安易に聖と俗の垣根を崩そうとする最近の発想には、いわば一種の(俗側の)グローバリズムを感じます。
例えば「女性祭司」の問題などもその一例ですが、司祭という職務を単なる職業として捉えるならば、確かに女性差別的なものと考えられますが、宗教世界はそういう次元にあるものではなく、神道の巫女に男性がなれないように、タブーが存在するものであり、そこにはたぶんに巫術的な要素があるわけです。神の働きという神秘に対し、応答するというのは人権とかそういう次元で語るものであってはならないわけです。ですから女性司祭を認めるという場合、人権論や倫理、社会学ではなく、神学的な、秘蹟的な観点から語らないといけないわけです。ですが「宗教的タブー」は論理の世界によって構成されているわけではなく、呪術性の領域であり、だから反論する言論をなかなか持てない。それゆえにタブーというものが論理で看破されると脆弱になってしまう。それは神秘の死にすら通じる場合があると思うのです。
現代社会は「新しい」「改革」「刷新」は善であるという感じで、「保守」「伝統」などは頭の固いよろしくない停滞したものであるという感じですが、実のところそのような「新しいものがよい」というのは資本主義的というか消費経済的発想であり、その価値に縛られているともいえます。イスラムの社会を中世的とみなす先進諸国にイスラムが反発するのは、そういう大量消費文化の負の部分が見えるからでもあると思うのですね。イスラム女性のベールを剥ぎ取る理屈はフランスの理屈であり、イスラム女性と宗教文化への侮蔑でもあるわけです。或いはジェンダーフリー思想ではイスラム人女性の権利はないがしろにされていると映る。私なども先進諸国の理屈で動きますから「とんでもない」などと思いますが、そのタブーを壊すことはイスラムという宗教の破壊になる場合もあるのです。しかし人道上あきらかに問題のあるものも存在しますし、それらに関してはイスラム社会が彼らの理屈で克服していかねばならないでしょう。同様なことが今カトリック教会にも突きつけられています。
女性司祭に関しては、禁域のものであると思うために、世俗の理屈で語れないだろうと思いますが、以前女性司祭賛成の人にその理由を聞いたら「自分がなりたいから」という理由で、何故なりたいかというと「体験してみたいから」ということで、「神」「秘蹟」という観点が置き去りにされていたので、なんとも返答に困りました。まぁ助祭などは聖書にもありますし女性もいいなぁとは思っていますが、司祭はどうなんでしょうか。
で、コーヒー飲みながらの話の成り行きで0神父がボソッと「伝統は容易く壊されるんだよな・・・」と寂しそうにつぶやいていたのが印象的でした。気難しく、怖いと評判の神父様ではありますが、なんとなく根本では気が合う気がしてきました。気がしてきただけで、いつ噴火させるか分からないのでまぁ、その後も遠巻きにしておりましたが。