少数派っていったいなんだろう?

政治信条は、宗教上の教義とは一致しないので、宗教共同体における政治的立場は左巻きもいれば右巻きもいる。これが健全な姿だと思う。昨今は科学が発達しすぎたために、政治が倫理にまで口を出さざるを得ず、場合によってはまともに宗教とぶつかり合ってはなはだ混乱を極めるが、とにかく、この世のこととあの世のことは、時に対立してしまうので、聖と俗は違う世界なのだと分けて考えるほうが楽である。聖と俗が一致していないといけないなどと原理的な思考だと生きづらくなっちゃうだろうなぁ・・と、わたくしのような不真面目モノは思うのである。

先日のエントリでつくづく思ったが、この、宗教家は聖と俗が一致していないといけないのだと考える人は実は部外者に多いことに気づかされる。ついでに言えば「カトリック教皇様のいうコトをまともに受け止め、頭から信じなくてはいけない」などと考えている人も多いことに驚く。教皇偶像崇拝していると思い込んでいるようだ。そしてその前提でもって批判するので、私としては困惑する。わたくしなどはパパ・ラッツィの倫理への命題(例えば同性愛者の問題)にいかに反論を加えたらよいのかなぁ?などと色々考えているけれど、他にも色々な人が自分の命題の中で、カトリックの正統と一致しない場合どのように反論を加えようか?などと考えていたりする。「バチカンは王道で正統でいいから、神学者は異端と呼ばわりされるような思想を生み出さないと面白くない」などと豪語している神学者までいる始末だし。

多くの日本人が描くキリスト教のイメージというのは、どうもアメリカ経由のファンダメンタルなキリスト教がしかもその真実の姿を伝えるのではなく、大げさにカリカチュアライズされた姿だったりする場合が多い。例えば「クリスチャンだ」というと酒を飲まないのか?と聞かれる場合も多いが、それはごく一部の教派で概ねのクリスチャンは酒を飲む。ヨーロッパのキリスト教徒に酒を飲むなといったら大変なことになると思う。
カトリックの場合だと啓蒙主義プロテスタントマルクス主義によって取捨選択された事例と主観によって書かれた歴史像で描かれる為に、暗黒の中世を作り上げた悪の組織として、「ベルセルク」のへんてこな教会みたいな姿が真実だと思われているようだ。漫画じゃあるまいし。

先日のエントリで友人が電話をくれた。そして以下のようなことを言っていた。つまり、例えば私のようなのが「日本人では少数派」といわれても困る。まぁわたくしなどは政治的には多くの日本人同様ノンポリの成り行きまかせ。宗教もこうして言語化し云々するから「真面目」などといわれるのかもしれないが現状はいい加減なものだ。四六時中抹香臭いことを考えているわけではない。浄土真宗とか曹洞宗とかに少し真面目に取り組んでる人と同じ程度なのに少数派?だから、少数派などといわれる理由が「キリスト教徒である」というただそれだけの理由ならば「そりゃあんまりだ」というコトであった。つまりここに無意識の日本人のもつある種の「差別」というか排他的意識が存在する。彼は「キリスト教徒にはナニ言ってもいいのか?」と、かなりおかんむりではあったが、たしかにあの手の罵倒を平気で口にする人は多い。彼だけが特殊というわけではない。漫画でのパロディとか酷い扱いとか、よく考えたら心が痛むときも多い。けど、漫画だし。ある種の記号化された宗教を引用しなければならないときに、カトリックの「装置」は引用しやすいから仕方がない。別にそれは「ナニかを物語るというフィクション」であり、目的が違うからいいのだ。問題はそうしたカリカチュアライズされた姿が真実の姿だと思い込んでいる無知な人が多いことだ。『ダヴィンチ・コード』を読んで「オプスディ」を悪の組織だと思った人は何人いるんだろう?

先のエントリでもコメント欄で取り上げられていた切支丹への迫害。特に大衆レベルでの迫害は無知による恐怖だったり異質なものへの排除だったりする。相手を理解しようとしないで異質なものをそのままにしてしまい排除するという構造が、そのときの政治によってはジェノサイドを引き起こす場合もある。大衆無意識がスケープゴートを見出し始めるとき、とばっちりを食うのは少数派の人間である。だから、ああいう単に宗教が違うというだけで「あなたは少数派」という視点や、誤った視点による無理解が放置され増幅されていくのは正直怖いものがある。

他国家に住むイスラムの人もそういう恐怖を味わっているんじゃないかと思う。当然イスラムの人は「そうではない。無差別テロを容認するようなそういう人間だけではないのだ」という説明努力をする必要もあるだろうし、我々もまた、頭ごなしにイスラムをこうであると決め付けたり怖がるのではなく、理解したり対話していく努力が要求されるだろうとは思う。なんせイスラムといってもすごい数である。当然スチャラカから真面目まで、葬式イスラムから、超マジまできっとすごく幅が広いんだと思う。民俗化したのまであると思う。
そして本当の問題は経済格差の問題や、アメリカ的資本主義の持つ性質が、固有の文化を破壊する性質があるのだというコトを知る必要もある。スーパーやコンビニは便利だがその性でなくなっていった商店は多い。大量生産で安価であるということが工芸技術をスポイルしていったり、土着の産業を衰退させていったりする。聖と俗の一致した思想であるイスラム社会からするならば資本主義という信仰が自らの信仰を侵略しつつあると映っても仕方ないだろう。第三社会は貧しく文明的に遅れている・・と考える前に、果たしてその価値は本当に進んでいるのだろうか?と考える必要があるのかもしれない。
我々が当たり前に思っている「善」なるもの。民主主義、情報化社会、発展、利便性、合理性、そういうものは本当に善なるものなんだろうか?などと思っちゃったりするわけです。実際いわゆる「先進国」と呼ばれる国のほうが実は世界規模では少数派だったりするわけだったり。

とりとめつかないエントリになってしまいました・・・やれやれ。

◆他の宗教のこと
そういえば、仏教もタイのとか、チベットのと、日本のとは全然違うよねぇ。日本のもひとくくりに出来ないし。
しかし世界には沢山いるのになかなか出会いのないのがイスラムの人だ。アラブ諸国やアフリカに行ったことがないので出会うことがない。イタリアでナイジェリアの人と話したくらい。アレッツォという街に住んでいる出稼ぎ労働者で、バスの中で散々日本の物価について聞かれた。「日本に働きに来たい」というので、日本の物価は異常に高く家賃も異常に高いからイタリアにいてイタリア語と英語が出来るんならこっちで稼いだほうがいいなどという話はしたけど、リリジョンの話はしなかったなぁ。ただ、彼は地理における自分の国の位置を全然把握していなかった。でも私もアルジェリアとナイジェリアの区別がついていないので、失礼なことをしたと思う。
数少ない知っているイスラム教徒というと、ジャワにいる友人の弟(日本人)が改宗したと聞いたけどその後連絡していないので、どのようなものか知る機会がないです。バリ島でであったイスラムの人はラマダンに酒を飲んでいた。「いいのかぁ?」と聞いたら「アッラーは慈悲深いからあとで謝れば許してくれる。けど、じっちゃんに知れたら殴られる」と言っていました。インドネシアイスラムは程よくいいかげんかもしれない。
・・・・・というわけで、わたくしにとってはイスラムは未知なる世界だ。