内在する原理主義

綾川さんが紹介していたブログに「イエスを有難がっている間抜け」なわたくしが反論でもしてみる。

http://d.hatena.ne.jp/whiteowl/20050717 

ダン・ブラウンのこの著作に関しては以前書評を書いた。
これ↓
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20050402/1113571747
主人公が「お前、ブルース・ウィルス@ダイハードかよ?!」という按配に笑わせてもらった小説ではあったが、面白かったよ・・は、さておいておいて、
「囲いの中の記事に注目」というので、囲み記事を読ませていただいた。
うむう。またこの手の批判か?!どうもオカルトに興味のある方らしい。オカルトはいい。オカルトは。アレはあれでかなり高度な文化を構築していたりするので面白いわけだ。で、そういう話の展開があるのかと思ったら・・どうも違うようだ。徹底的にキリスト教を馬鹿にした口調で論が展開されている。うーん。まぁ馬鹿にされても仕方ない歴史があるし、宗教なんぞ他宗教の人からみりゃなんでも間抜けに映って当然だ・・とはいえ、流石にこれはちょいとナニだ。andy22さんが取り上げたのでニーチェのアンチクリスト並のを期待していたんだが、典型的な日本人のキリスト教批判がまとまって凝縮しているだけだよ。駄目だよ。これは。
このところ、自己のものではない他の文化を徹底的にくさしてしまうこの手法というのは批判としてどうよ?というのをよく感じる。例えばキリスト教イスラム教批判というのはわが国では異常に多く、ナニかを鵜呑みにしたようなステロタイプの批判にはいい加減食傷気味なので、典型的な批判文書を読むと虚脱感に襲われてしまいます。
もっともキリスト教がどれぐらいアホくさいことをしてきたかというと、まぁ、かなりなもので、キリスト教のみを取り上げれば私も罵倒の嵐を浴びせかけたくなる事象は多いわけですが、このように物事を善悪にきっちり分けてしまおうというのは典型的なキリスト教的思考(それも原理主義的)に基づいた方法論で、東洋の文脈からするとこうした批判手法というのは元々あまり存在しなかったとは思いますね。だから批判者が一神教を批判するためにキリスト教的思考で以て量ってるというのは少々滑稽に映ってしまうのです。
こうした現象は日本を批判するお隣の国々の思考「日本=悪」にも通じておりまして。昨今の教科書問題にも通じます。歴史というのは実際に起きたことの記録であり、それ自体は善悪の埒外です。しかし中国や韓国はまずはじめにそうした歴史を善悪で見る。そういう場合守るべきものは、自国の民族であり、自国の民族を守るというのはそれ自体は決して悪いことではないが、他を貶めて存在証明をしようという手法は原理主義的な人にありがちな傾向ではあります。尤も、歴史など主観で書かれていて仕方ないもので、問題は他者の主観を貶め、圧力をかけたりする場合に起きますが、他文化を考察するならばそれなりの敬意はある程度払うのがまぁ紳士的ではありますね。昨今ではウヨな方々にもそういう傾向が見られますが、自らを「正義」と信じて疑わない論理では善悪をとにかくきっちり決めておきたいという前提で物事を観察しがちになってしまうわけです。ですので偏った事象のみを取り上げ自説に都合のいい場面のみを取り上げるという批判が蔓延していく羽目になります。場合によっては客観的なものが何一つない、つまり読み手との共通言語すら存在しないような「罵倒」批判すら登場してしまうわけです。
さて、宗教などはそういう原理主義の巣窟なわけで、わたくしの所属するカトリック教会などにも教義を書いたカテキズムをぶん回して他者を裁くような人々がおりますし、キリスト教にもいる。アメリカの宗教右派などはそういうおっかない人が沢山いそうです。元々原理主義ってのはキリスト教の十八番だったわけで、これはロゴスの宗教の宿命ではありますね。言語でロジカルにやろうとするとそういう羽目に陥りやすいのです。しかし人間の営みに目を転じると善も悪もはっきりと分けることは不可能なわけで、人間とはそういう不条理な存在だからこそ人はディックの小説の主人公のごとく、うじゃらうじゃら悩みまくるんでしょうし。だからその辺りの救済をどのようにするかがそれぞれの腕の見せ所だったりするのですね。マッチポンプな告解システムとか。まぁ色々。
宗教というのはそうした人間の不条理に対するある種のガイドラインを与えることにはなりますが、ガイドラインの域を出ない。しかしそれでも尚、普遍性を求める人間の性は、アニミズム(神道)の超越する自然に対する態度も、仏教の仏法に対する態度も、一神教の神に対する態度もそう変わらんとわたくしなどは思うのです。どの宗教も、歴史が長いゆえに様々な様態を持ち、文化を多様に擁しています。だから批判するならば、もっと絞り込んでいかないとまずいでしょう。
例えば、キリスト教成立の背景もああいう単純化は流石に違うと思うと思うのですよ。ディアスポラの歴史とかぜんぜん違うし。ディアスポラキリスト教なんぞが生まれる前の500年以上前の出来事だじょ。「原始キリスト教は巧妙になかったということになっている」とかも違うでしょう。聖書学も神学も原始キリスト教研究なんぞにいそしんでいる昨今、しかも中世オタのわたくしにとっては肩身の狭いことに原始キリスト教オタが多くて、中世は馬鹿にされているんだな。現代のキリスト教ギョーカイ内では。
そもそもダン・ブラウンの『ダヴィンチ・コード』の設定自体、キリスト教内では語りつくされたネタだったりするので「何を今更?」的と本なものなので、アレが受けるなら荒俣さんの『レックス・ムンディ』も読んでくれ!とか思うのだな。マグダラは中世ではもっと柔軟に受け止められていたし、ベアート・アンジェリコの壁画におけるイエスとマグダラを見たら、きっとこっそり妄想していた人々が多数いたことに10ペリカ
キリスト教を批判するなら、やはり「理屈っぽいうえにおせっかいである。」という辺りだとまぁ妥当でしょうね。ほんとにおせっかいな人は多いっす。このように知らない方のブログの批判とかしてる辺りも我ながらおせっかいだな。まぁ、タマには喧嘩売ってんのか?ゴルァといわれるようなエントリを書いてみるのもいいや。告解ネタかもしれんが、今日は暑かったし。
それにしても原理主義ってのは実は個々に内在する思考の一つなんだと思うのですよ。人間は主観に生きる生き物であるがゆえに。その主観の揺らぎがフィリップ・K・ディックのテーマだったりするわけで、次は『死の迷宮』でも読むか。これは少し暑苦しそうな設定ではあるが。