相変わらずディック・その2

暑いうえに不眠症で読書だけが進むので、ディックのこれも読了。

スティグマータ(聖痕)というのは聖フランシスコがオリジナルでそれ以前には存在していない。
パーマー・エルドリッチはドラックのディーラーの姿をとる超越的存在でイエス・キリストの裏返しである。この小説世界でも相変わらず現実は脆弱である。普遍であるというものを我々が認識するとき、現在、今ここで過ごしているこの現実。というものが最もリアルであるはずなのだが、ここではドラッグが引き起こすフラッシュバックが絶えず起き続け、身近な現実世界が最も信用できず、絶えずどこかで不安を呼び起こす為に主人公は神経症的な状況に晒されている。最終的に主人公の一人であるバーニィが選んだ生き方は土を耕すという根源的な生き方だという辺り「人間にとって最も確かなものはなんだ?」という一つの回答になっている。塵は塵に。アダムは土から作られた。
この物語を通じてキリスト教の聖餐論、それもカトリックの聖体論がたびたび言及されるのは面白い。表象と実体というもののあやふやさと普遍。なるほどディックもキリスト教文化の中に生きている人なのだと思ったですね。

ところでわが師匠濱ちゃんは司祭になる前の仕事はカーディーラーであった。顧客を求め車を売り続けるという最も資本主義的な仕事。暑い日も寒い日も歩き続け車のカタログを届け、客に最新の車の有用性を説き続ける。セールスマンという職種はドラマ化しやすい。最も哲学と反対の職種でありながら、彼ら自身は自らの存在を問い続ける思考を持つという傾向にあるのかもしれない。「あるセールスマンの死」を持ち出すまでもなく、アメリカの小説などではよく草臥れ果てたセールスマンが侘しさ漂うモーテルの一室で・・・などというシュチュエーションで始まる物語も多い。大きな歯車の中の一つであり続けることは苦しい。企業の意思に対し、自らの存在証明を行いたくなる衝動が起きるとき、企業にとってはそれは無駄な存在となりうる。有能でありたくば企業の意思と共にいることである。それも能動的に。
濱ちゃんはそこから離脱し、聖域に入った。
(・・ただし新たなる「意思」と共にいることになるわけだが。それも能動的に。)