大衆の暴力

昨日は久しぶりぶりに、某司祭に会った。スコトゥスなんぞやってるかなりオタクな神学者神父だ。ドイツに留学していたので、彼はビールが好きだ。だからビールを飲みに行ったよ。
そこで話に出たけど、日本という国での修道司祭ってまず司牧を求められている。近代の修道会はあきらかに宣教が目的であったりするからそれはそれでいいのだけど、中世以前の修道会というのは、世の中の奇人変人の駆け込み寺だったというか、学者もヨーロッパでは勉強ばかりしている変な人だったわけで。そういう人が生きるには修道会という組織しかなかったわけです。近代になると大学がどんどん教会の組織から切り離されていきますから修道会も存在意義が変化していくのですが、中世の霊性を生きる修道会にはやはり相変わらず・・特にフランシスコ会においては・・奇人・変人の吹き溜まり・・いや、そういう社会ではもしかしたら役に立たないけど文化という点に於いて重要だったりすることをしたい人が集まってくるわけです。しかし日本では信徒がそれを赦さなかったりするので、ちょっと気の毒かもしれない。
そもそも誰の金で喰ってるんだ?といいたくなる場合もあるが、やはり文化というのはクリエイターに無駄飯を食わせて豊かになっていくわけで、それの出来ない合理社会というのは文化が貧しくなるんですね。オルテガが「大衆は科学者をないがしろにしている」とぷんすか怒りまくっていましたが、「大衆は高度な科学の恩恵に浴しながら、その科学を探求するものへの扱いはぞんざい過ぎる」とかなんとかそんなこといってます。
ブックオフを珍重する人々もそれですね。著者に金の入らない流通にしか金を落とさないというのは文化をタダで手に入れようという浅ましい考えであり、また著作権の問題もそれと同様ともいえるのです。逆に安いのがいいという発想しか出来ない社会の場合は、己自身がまだ貧しいということを自覚しないといけない。貧しいなら貧しいなりの分相応の社会に生きる自覚を持つ必要がある。けれど「いいものは欲しいが、金は払わないぞ」というのはもうクリエイターを奴隷化しようとする大衆側の暴力ともいえるということなわけです。
ところで、昨今は素人がプロの分野に容易く入り込めるシステムも存在します。例えばフォトショップとかイラストレイターなどというソフトがあれば誰でもデザインがなんとなく出来てしまう。昨日神父とご飯を食べていたレストランで、そこのメニューをそれらのツールを駆使して作ったという話を隣のテーブルで店の親父が熱く語っていましたが、確かにある程度のレベルのものは作れる。しかしあきらかにダサい。フォントがダサい。文字間がダサい。カタカナの文字送りの配置が気持ちが悪い。そういえば先日やはり大学の同僚が某広告代理店が作ってきたカンプを元にデザインワークをしていたけど、代理店の人間がある程度のデザインをやはりあの手のツールを駆使してあげていて、それを見せてもらったのだけど、ダサい。プロと素人ではあきらかに違います。友人が仕上げたそれはやはりプロのものだった。(但しアート・ディレクションの一番初めの段階で彼が作ったデザインのほうがもっとよかったんだが、それは流石にお洒落すぎるというので却下されてしまったようです。まぁクライアントがお堅い会社だからしゃぁないよね。)この辺りの違いにしかし昨今は金を惜しむ人が増えてきたようで。バブルが崩壊した後の社会というのはこんなものかもしれない。
しかし、プロのデザイナーは0.01ミリの差異すら見逃さない。ある友人デザイナーはイラストレーターの作業倍率を最大にして文字合わせをしていました。(はっきりいって作業するにはでかすぎなんだけど、それくらい気を使う)文字もベタ打ちではなくアウトライン化して一文字づつ強弱を変え、文字間も微妙にバランスを考え、開けたり縮めたりしています。ところが昨今のデザインワークを見ているとあきらかにその辺りいい加減だよなぁ・・・というシロモノまで流通しているようですね。商品としてこんなものを出していいのか?などとわたくしなどは思うんですが、文化が衰退しているとこうなってしまうのかも。デザインっていうのは金がないときに一番削減される部門なので仕方ないのか。
ただ、喫茶店の額が少しでも傾いていると気持ちが悪くなるとか、ダサい色彩があふれかえっている街の風景に浸かりすぎると吐き気がしてくるわたくしにとって、これらの視覚的暴力は辛いものがあります。むしろ中途半端ならナニもないほうがいいので島の風景のほうが楽。ガラスに貼り付けたわら半紙に黒マジックの殴り書きで「やぎ肉あります」とか書いてある広告のほうがマシだ。
楽家も耳がいい。だからある作曲家は「変な音楽が鳴り続ける日本の街を歩くと辛い」といっていました。たしかに例えばスーパーマーケットの音楽は暴力ですね。「さかなさかなさかな」とかいう魚のテーマソングとか。あれ聞いてしまった日には耳がさほどよくないわたくしでも夜中まであの音楽が耳をついて離れないので辛いです。音が激しく微妙な現代音楽なんかやっちゃってる作曲家にとってアレは相当な暴力であることが想像できます。ああいうのは暴力を旨とする未来派の人々は喜ぶんだろうか?
大衆化された現代社会はこのように音楽とか美術とかの世界を含めた奇人変人の感覚は理解してくれないので、件の神父のごときわがままな「出来れば司牧の現場など行かず、ずっとお勉強していたい」神学者などの存在も赦さなかったりするわけです。日本の場合カトリック少数民族で金がないのでよけいに肩身が狭いだろうコトが想像できます。こういう奇人変人を完全に養うにはやはり無駄金を惜しまない大金持ちがいないと成り立たないんですね。現代社会ではそれは無理な話であったりするので難しいです。
で、ぼやきながらも、自分の趣味とかけ離れたへんてこなカンプをなんとかクライアントの希望を入れながらデザイン処理し続け、それなりの風格に仕立て上げた友人のデザインワークを横で見ていて、やっぱプロってのは孤独で悲しいよな・・とか思っちゃいましたよ。生徒はそういう作業を見ると「めんどくさいよ〜」とか言ってますが、めんどくさいなどといっていたらプロ=奇人・変人には成れないのだな。